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仙台で生まれ23歳までそこで暮らされた、教員をされている対村徹史さんから、次のような手紙を受け取りました。対村先生の了解を得、以下に掲載させていただきます。
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ヒラルドさん、マユミさん、
お話していたかどうか定かではありませんが、私は23歳まで仙台に生まれ育ちました。ですから、若い頃の友人や知人の多くが、今回の事態に遭遇し、命を落とされた方や不明になっている方が確実におられると思います。私が住んでいる大阪では、時間をかけて見ることが出来る不明者のリストは手に入りません。亡くなられた方々で、名前が分からないまま埋葬される方も、膨大な数にのぼると思われます。
適切な言葉かどうか分かりませんが、戦時と変わらないような状況だと思います。私がまだ物心がついたかつかない頃、ラジオの第二放送が戦争で行方が分からなくなった方々の安否情報を放送していた記憶があります。戦後数年、あるいは10年ぐらい、所在が分からない方が多数おられたわけです。
そして今また、津波の後、海底や洋上に、人の手の届かないところに攫われていった方の数が知れない、ということなのだろうと推測しています。
かなり時間が経っても、誰がどんな状況で波に呑まれたのかという詳細は、分からず仕舞いになってしまうのか、とも思います。
生きている間に、このような事態を、阪神、東日本と目の当たりにするとは思ってもみませんでした。
断片的に伝わってくる情報から、たとえば私が通っていた中学校が避難所になっているとか、住んでいた場所の近くまでは水は来なかった、ということは分かります。しかし、象の体の一部を触って象を想像するような事態に、全体が分かるまでにはもっと時間がかかるだろうと、半ばあきらめもまざった思いがしています。
高校では通学圏が広くなり、同級生には津波で壊滅した町の出身者もいました。
亡くなった方々のリストを見る時、同年代のところに自然に目が行くのですが、時折、十何歳とか五歳などという数字が目に入ってきて、やりきれない思いになってしまいます。
大学は、いわゆる宮城県の教員養成を一手に引き受けている学校だったので、同じ年度の卒業生の9割以上が県内に散らばっており、彼らの中にも確実に犠牲者がいると思います。
当面は自分の生活をやりくりし、時期を見て、自分の出来そうな手伝いをしていこうと考えています。今日タイから心温まるニュースが届きました。タイに一時帰国していた東北大学のタイ人留学生たちが、津波の犠牲者への義捐金を募ったところ、沢山の方々が協力してくださったそうです。東北大学は私の父が生前勤めていた学校なので、とりわけ心を打たれました。
対村 徹史 |
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© 2011 Trankiel
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