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フローニンゲン美術館、『知られざるロシア』展を開催

展示の多様性は絵画展を超えて
 
 
フローニンゲン市は、首都にあるような
美術館を有する地方都市です。(注1)
 
 
 デルフザイルからの電車は、雪で覆われた景色を通り、少しの遅れもなくフローニンゲンに到着しましたが、オランダの他の場所では大雪のために交通網が麻痺していました。例えばユトレヒト中央駅での運行停止、スキポール空港での遅延やキャンセル、高速道路では何キロもの渋滞が起こっていました。
 フローニンゲン美術館での大ロシア展に、雪は相応しいかもしれない、とも思えました。
 
<左>マルティロス・サリアン『Aragat
  (アラガツ)』(1925) 部分
 
 広報・コミュニケーションのチーフ、Jose Selbach(ヨーゼ・セルバッハ)はプレスミーティングの初めに、その天候の影響、まだ何人かの参加予定者がフローニンゲンに向かう途中であることを知らせます。Alessandro(アレッサンドロ)と Fransesco(フランチェスコ)のMendini(メンディーニ)兄弟はまだミラノの空港で、そこから、明日のリニューアルした美術館のオフィシャル・オープンニングには是非間に合うように願っている、と連絡してきていました。
 
 ヨーゼ・セルバッハが、これをKees van Twist(ケース・ファン・ツヴィスト)館長に伝え、彼も又、その冬の天候とその影響のことを少し話します。ロシアのオペラの歌姫 Olga Borodina(オリガ・ボロディナ)は、相談した結果、そのフライトをデユッセルドルフ行きに変更したことを話します。彼女はスタットショーブルフ(フローニンゲンにある劇場の名前)で公演し、明日のオープニングに光彩を添える予定です。彼はその終わりに、ロシア、アルメニア、クリミアからのゲストは、既に到着していることを聴衆に知らせ、「彼らがフローニンゲンへ来ることが出来たのですから、他の人たちもきっと成功するでしょう。」と冗談を言います。
 

『チェルノモールの庭』アンドレイ・アダモヴィツィ・ロラー(1842)
© A.A. バフルーシン – モスクワ中央演劇博物館
 
 彼は続いて、2010年12月19日から2011年5月8日まで美術館で開催される『Het Onbekende Rusland – Oriëntalistische Schilderkunst 1850-1920(知られざるロシア - オリエンタルな絵画芸術 1850-1920) 』展のことを話します。ケース・ファン・ツヴィストは、この展覧会のことを知らせると「またロシア?」と言われたことから始め、「そうです。更にロシア展のシリーズがやって来ますから、まだまだ離れられませんよ。」と答えたことを話します。
 最近のことについては、ロシアだけではなく、ソビエト連邦崩壊後に生まれた若い国々のことを話題にします。それらの国々は、自分たちの美術館の協力で、フローニンゲンで彼らの芸術が展示されることを、とても誇りに思っています。
 この展覧会は、彼の目には、文字通り又比喩的にも、美術館が意味すべきものである、と映っています。新しい展望をもたらし、あたらしい地平を示すことです。「西洋とアジアの境界が横たわっている、ヨーロッパ東方の文化や国々の多様性を知らせることで、そうしています。」
 この展覧会に集められた芸術の「多様性」も目立っています。これは、様々な文化が機会を得ていることが特徴的なだけでなく、フローニンゲン美術館自身が意味するものとも継ぎ目なく結びついています。ファン・ツヴィストによれば、『知られざるロシア』は又、フローニンゲン美術館の考え方に、全く相応しいものです。彼はこのことを次のように話します。「私たちの使命は、挑戦し、驚かせることです。この展覧会は、展示された絵画と、それがもたらす歴史とで、優れてそうしていると思います。モスクワの民族博物館からの素晴らしい写真によって、この展覧会はただ芸術である以上のものになっています。それは物語であるだけでなく、価値ある何かを語りかけるものです。」
 


セルゲイ・スヴィトスラフスキー
『東洋の市の光景』部分-日付なし
 最後に、このような大展覧会の開催を可能にすることに関わった人たちへ、感謝の言葉が述べられます。まずその前に『知られざるロシア』展を一緒に企画した様々な国からの同僚たちに、彼らの努力なしではこの展覧会は出来なかったと話します。
 VNO/NCW(オランダの経営者団体)とフローニンゲン美術館の協力で生まれたFonds Kunst en Economie(芸術と経済の基金)へ賛辞を呈します。その基金は、北部オランダの経済の活性に全力を傾けているSSN によって支えられており、美術館への寄付は僅かなものではありません。ファン・ツィストは、文化はテーブルクロスの縁飾りではなく、社会の現実的な一部と見られるべき、と話します。芸術・文化は、社会の豊かさのためだけでなく、経済のためのものでもあります、と。
 そして又、フローニンゲン市、GasTerra(ハステラ)や Gasunie(ハスユニー)などの会社、メディアパートナーである Dagblad van het Noorden(ダハブラット・ファン・ヘット・ノールデン)や Avro(アフロ)への感謝の言葉が述べられます。
 特に、BankGiro Loterij(バンクギロ・ロタリー)がフローニンゲン美術館への援助を2011年1月から5年間延長を決定したことを、彼は大変喜んで知らせます。これによって、コレクションを維持・補強し、美しい芸術作品を購入することが出来ます。

 それからマイクは、アムステルダムにもう長く住んでいるロシアの芸術史家、Inessa Kouteinikova(イネッサ・カウタイニコーヴァ)に渡されます。彼女はフローニンゲン美術館のゲスト管理委員として、彼女自身が「オリエントへの素晴らしい旅」と名付けたこのプロジェクトを、3年近く手掛けてきました。
 彼女は、美術館の管理委員Patty Wageman(パティ・ヴァーヘマン)と共に、この展覧会構成の責任者です。
 

『草原にて』 - パヴェル・クズネツォフ (1913)
© 国立トレチャコフ美術館 モスクワ
 
 カウタイニコーヴァは話します。「ロシアは、バルティック海から太平洋まで広がった、ヨーロッパとアジアにまたがる国であることは、皆さんご存じだと思います。ロシアは、地理的な意味で両方の世界にまたがっているだけではありません。文化的にも、ヨーロッパとアジアの両要素が集められています。これを理解するには、ウラルの東のシベリア平原を探すのではなく、その南に向きを変えなければなりません。中央アジア、コーカサスやクリムへと。文化的な観点から言うと、ここにヨーロッパとアジアの境界が横たわっています。
 この展覧会は、ロシアとその南隣との歴史的な結びつきを物語っています。接近と同化の関係は、又、戦争と抑圧によるものでした。ヨーロッパとアジアの愛憎の関係は、ロシアの状況の中で分かち難く結びついています。
 このことを考えれば、作品がロシアからも、オリエントからも来ていることに、驚くことはありません。ロシア、ウクライナ、アルメニア、ウズベキスタンの、全部で16の美術館が、この展覧会のために協力しました。ロシアからは、フローニンゲン美術館でのロシア展がいつもそうであるように、その大部分がモスクワのトレチャコフ美術館からのものです。トゥーラにある全く知られていないルネッサンス美術館からも、2点が展示されています。
 ロシア以外の最も重要な美術館は、エレバンにあるアルメニア国立美術館です。そして、疑いなく最もエキゾティックなのは、ウズベキスタンの砂漠の真ん中の小国、カラカルパクスタン共和国の首都ヌクスにある、サヴィツキー美術館です。
 
 「フローニンゲン美術館マガジン02」に掲載された「知られざるウズベキスタン」の中で、イネッサ・カウタイニコーヴァは「禁じられた砂漠からの芸術」というテーマを詳しく述べています。そして又、ヌクスのサヴィツキー美術館を世界的に有名にした、モダンアートのユニークなコレクションについても。

 この後、彼女は展示作品について話し、ロシアのオリエンタリズムは、フランスやイギリスのオリエンタリズムと大きく異なっていることを示します。そして実際、展示会場で、官能的な裸婦も、空想的なハーレムの再現も、見ることはありませんでした。もしかすると、そのようなものを思い出させるのは、Vasili Vereshchagin(ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン)の絵『奴隷男児の販売』かもしれません。しかしヴェレシチャーギンは、それ以上の画家です ..... この絵が描かれたのは、彼がオリエンタリストだったからか、それともロシア文化に固有なものだったのでしょうか。
 イネッサ・カウタイニコーヴァは、ロシアの東洋との現実の境界で、ロシア・オリエンタリズムがとても広く多方面にわたっていることを、説明します。それらの作品は、その制作者たちがオリエントを知った方法と直接結びついています。彼らは、旅行者、兵士、報道記者、亡命者、移民、あるいは原住民として、オリエントと関わりました。ヨーロッパ人のように、部外者としてではありませんでした。


ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン
『奴隷男児の販売』部分  (1872)
 彼女は又、ケース・ファン・ツヴィストが既に話した、ここでの物語に重要な地理的側面に、少し長く留まります。展示された1770年から前世紀の20年代までの歴史的地図から、ロシア帝国の南への膨張は、共産主義の熱望からではなく、ツアーリ時代に起こったことが明らかである、と指摘します。
 
 それを示すものとして、Vasili Smirnov(ヴァシーリー・スミルノフ)が、ロシア女帝エカテリーナ2世と彼女が制した新しい国への旅行の寓意的作品を描いています。例えば1773年にクリミア半島へ。ここでは、彼女の勝利の行進をジュピターとピョートル大帝がどのように上から眺めているか、見ることが出来ます。
 ロシアの遠征がどれほど遠くまで延びていたかは、展示されているサンクトペテルブルグ民族博物館のコレクションからの民族的作品で、明らかになります。そしてこれに、オリエントのウズベク、キルギス、アルメニアやユダヤの住民たちの姿が描かれた、トレチャコフ美術館からのヴェレシチャーギンのスケッチが加わります。
 

『カバルダ人。ユダヤ人。2隻の帆船。ベランダ付き木造建築の上部』 - ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンのスケッチ (1865)
 
© 国立トレチャコフ美術館 モスクワ。 右も同じ
『毛皮の服と帽子を着けたカザフ人(バキシュ)』
ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンの
スケッチ(1868)
 - 彼の旅行ガイド
 
 展覧会のハイライトの一つは疑いなく、長さ7.5mの、『Volkeren van Rusland(ロシアの民衆)』というタイトルの巨大なフレスコです。ここフローニンゲンで、文化の混合の表現を熱望していた制作者たちの考えに合わせ、旧新・南北の間の架け橋を表現しています。この展示された絵は、その一部を構成しているものです。
 ロシア革命が起こり、それは倉庫の中に消えてしまっていました。今、フローニンゲンでのこの展覧会のために特別な修復がなされ、80年の後に初めて再び多く人々の前に展示されています。
 1913-1916年に制作されたもので、同時期にはモスクワのカザン駅の建設が、ペテルブルグの新進建築家Alexej Sjtsjoesev(アレクセイ・シチューセフ)の設計によって始まっています。ここでも駅のインテリアがオリエント風に描かれています。カリスマ的な理事長ニコライ・フォン・メックの依頼で、サンクトペテルブルグの芸術家グループがこの夢のプロジェクトを始めました。彼らの中には、Nikolaj Rjorich(ニコライ・リョーリョフ)、Alexandre Benois(アレクサンドル・べノワ)、Zinaida Serebrjkova(ジナイーダ・セレブリャコフ)、Ivan Bilibin(イヴァン・ビリビン)、Jevgeni Lansere(イェヴゲーニ・ランセレ)のような偉大な名前もあります。ランセレの名前はフローニンゲンで展示されているフレスコと結びついており、社会派リアリズムの先駆けとして見ることも出来ます。
 革命の後イェヴゲーニ・ランセレはサンクトペテルブルグを去ってダゲスタンに落ち着き、そこで3年間、オリエンタリズムの影響を受けます。彼が1920年にトルコと日本へ旅行しているのは、興味深いことです。一度祖国に戻り、グルジアの首都トビリシに住み、そこでレオ・トルストイの『コーカサスの思い出』の挿絵を描きます。トルストイは、先に出てきたトゥーラの町で生まれ、葬られている、偉大な作家です。
 

『ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)畔で』 - ヴァシーリー・ポレーノフ(1888)
© 国立トレチャコフ美術館 モスクワ

 パレスチナは、ここに集められたものの中で、最も南に位置しています。一度もロシアに属したことのない地域ですが、そこがオリエンタリズムと分かちがたく結びついているため、ここに展示されています。この地は今日まで、いつも現代の中東紛争のコンテクストの中で語られています。例えば、エドワード・W・サイード著『オリエンタリズム』。この中で著者は、西洋のオリエンタリズムは、ナポレオン・ボナパルトの軍隊がレバントを急襲した18世紀末に、半ば神話的に構成されたもの、と言います。疑いなくそれは、客観的学問的なものではなく、西洋の力による帝国主義的な民衆の征服から生まれたもので、ステレオタイプに支配されたもの、と書いています。
 植民地主義の西洋の力。オランダも、その一部をなしていました。西洋のオリエンタリズムの根幹、17世紀の昔にさかのぼるコレクションを持つライデン大学の図書館でも、このことを見つけることが出来ます。その目的は明らかに、プロテスタントを広めることと共に、政治的・戦略的関心と商業的性格を持つものでした。特に商業で成功していたことは、当時オランダが日本に上陸出来る西洋で唯一の国であったことからも分かります。彼らは全体として、自身の信仰を広めることをせず、その代わりに有益なビジネスがもたらす金銭的な利益を得ていました。現在ライデン大学や他での東洋学の中で、日本学は今も重要な位置を占めています。
 
 ロシアのオリエンタリストたちが当時、その聖地に抱いた関心には、宗教がとても重要な役割を演じていました。様々な観点からユニークである、このフローニンゲンでの展覧会で、そのことは相応しく扱われています。
 988年、既にロシアはキリスト教に改宗しており、17世紀までイコンだけが絵画芸術の表現でした。エルサレムを訪れる人は、ロシア皇帝アレクサンドル3世が1881年の即位に際し、オリーブ山に建設させたマグダラのマリア教会に、心を打たれることでしょう。教会の7つの金色の丸屋根は、16、17世紀にロシア帝国で人気のあった建築スタイルを思い出させます。
 エルサレムでこの堂々とした教会が建設される10年前に、ロシアでは画家集団・移動派が生まれています。その後Ilya Repin(イリヤ・レーピン)もこれに参加し、中心的人物となります。彼らは民衆の運命にとても同情し、キリスト教からインスピレーションを得た作品の中心に、その苦しみと寛容を置きました。これは社会派リアリズムを導き、それは聖書のテーマとの類似を示しています。そこではキリストが、レーニンのような人物に代わっています。
 レーピンは1882年、アブラムツェヴァの小さな教会のイコノスタシスを Vasili Polenov(ヴァシーリー・ポレーノフ)と一緒に制作し、そこは後にロシア・アールヌーヴォーの発祥の地となります。
 
 私たちは、フローニンゲン美術館が2001‐2002年に開催し大成功した『ロシアの秘密』展で取り上げられたイリヤ・レーピンを経て、ヴァシーリー・ポレーノフに至ります。彼の作品は、以前美術館で開かれた展覧会『ロシアの風景』や『ロシアのお伽話、民話と伝説』でも展示されています。
 今回彼は、聖書のオリエントの部屋に展示された作品で、戻ってきました。1880年頃、ポレーノフは2度その聖地への重要な旅行を行っています。彼が大きなキャンバスに描いたのは、彼のキャリアとなる『Christus en de Overspelige Vrouw(キリストと姦淫の女)』でした。ポレーノフはこのため、パレスチナでの滞在中に、一般の人を何百もスケッチしただけでなく、エルサレムの教会のインテリアや外装、嘆きの壁のユダヤ人も描きました。
 

ヴェレシチャーギン 『予期せぬ襲撃』(1871)部分
 

 
 この展覧会のハイライトの一つは、19世紀ロシアの偉大な画家の一人とみなされているヴァシーリー・ヴェレシチャーギンの作品です。
 彼は兵士として、コンスタンティン・フォン・カウフマン将軍に同行しトルキスタンへ。そこで遠征の悲劇や凱旋を目撃しました。彼はミュンヘンに滞在中、その歴史をキャンバスに描き、その戦争の狂気を表した絵画シリーズは、売られることはありませんでした。彼は密かに、皇帝アレクサンドル2世にそれを購入してもらうことを望んでいたのですが、皇帝はそれには全く関心を示しませんでした。それは、画家が耐えなければならなかった、公的な人々からの厳しい批判のためだったのでしょうか? 彼らは、ここに示された残酷な事実に目を閉じている方を、強く望んでいたからでしょうか?


ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン
『戦争の幕切れ』(1871)部分
 それに変化がやって来たのは、パーヴェル・トレチャコフがヴェレシチャーギンの作品を買った時でした。それは、彼がモスクワで開いた、彼自身が最初から祖国の絵画のための公共美術館を意味していた、トレチャコフ・ギャラリーのための購入でした。大きな作品だけではなく、ヴェレシチャーギンの小品の多くも、そのモスクワの美術館に運ばれました。それらの小品は、民衆たちと付き合う中で彼らを描いた作品で、優れた人類学的表現と言えるものです。これらの珠玉の小品のいくつかも、フローニンゲン美術館での展覧会で見ることが出来ます。
 そしてヴァシーリー・ヴェレシチャーギン自身は? 彼は日露戦争(1904-1905)に従軍、旅順艦隊司令長官Stepan Makrov(ステパン・マカロフ)と一緒に旗艦「ペトロパヴロフスク」に乗り込み、戦争の絵を描いていました。1904年4月13日、旅順に戻ろうとしていた「ペトロパヴロフスク」が日本軍の機雷に触れて沈没、マカロフ、ヴェレシチャーギン、ほとんどの乗組員が亡くなりました。
 それから100年以上を経て今、冬のフローニンゲンに彼の作品が数多く集められ、ヴェレシチャーギンの印象的な『ティムールの門』が展覧会のシンボルマークとして選ばれています。「戦争を描いた絵」に感銘を受けるだけでなく、彼の手になる他の作品の傍にも、長く立ち止まります。ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン、情熱的な旅行家で記録者。100年以上も前に既に、権勢欲とそこから生じる破壊的な戦争や、キリスト教世界とイスラムの二つの世界の衝突に、関心を向けていた人物。それらは、私たちの今日の世界に容易く置きかえられる事柄です。
 

『ティムールの門』 - ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン(1872)
© 国立トレチャコフ美術館 モスクワ
 
 そして最後の部屋には、アルメニアの画家、Martiros Sarian(マルティロス・サリアン)の作品が展示されています。同時代のヴァシーリー・ヴェレシチャーギンとは対照的に、サリアンの作品には征服や抑圧を考えさせるものは何も見出せません。彼は時々、極めて僅かに、言葉で表すことの出来ない人間の深い悲しみを示すだけです。彼が、自身の民族を襲った、今日までも多くの人々の心に残る、忘れられない残酷な運命の目撃者であったことを考えれば、このことはいっそう注目に値します。
 彼と先に述べた芸術仲間に類似点があることも確かで、ヴェレシチャーギンやイェヴゲーニ・ランセレなどと同様、サリアンも旅行をしています。彼はある時期トルコやエジプト、イランに滞在しただけでなく、彼のパリ時代もよく知られています。パリでの滞在中、彼の作品はヘンリ・マチスやポール・ゴーギャンの影響を強く受けました。それ以前、ロシア革命の後、彼は4年間ロシアに住んでいましたが、その後、自身の愛するアルメニアに戻ります。そこで彼は、武器のぶつかる音なしに、彼自身の絵画での革命を生み出します。マルティロス・サリアンはそれをより高いレベルに導き、ノアの方舟と結びついたアララト山によって知られ、ローマ以前のはるかな昔にキリスト教に改宗したこのバイブルの地の文化に、計り知れない貢献をしました。
 「zanger van Armenië(アルメニアの歌人)」という愛称でも呼ばれたサリアン自身、大変成功した画家でした。彼の大きな展覧会が、モスクワ美術アカデミー、パリにあるモダンアートのジョルジュ・ポンピドゥ美術館、アンティーブのピカソ美術館などで開催されています。自然や人間を称え歌う、人生の喜びに満ちたこれらの絵画は、あらゆる所で多くの愛好家を惹きつけています。
 

『少女の頭』 - マルティロス・サリアン(1912)
© 国立トレチャコフ美術館 モスクワ

 プレスミーティングの終わりに、美術館の活性化が話されます。厳しい監督の下に改修が行われたのですが、実験を恐れることはありませんでした。その例は、新しくデザインされたラウンジで、ポストモダンの建物とはとても対照的なものです。
 ケース・ファン・ツヴィストは説明の中で、これらの新しいデザインによって、デザインと芸術の違いが取り除かれた、と話します。その新しく創られた部屋を訪れ、納得します。
 スペインのデザイナー、Jaime Hayon(ハイメ・アニョン)が設計したインフォメーションセンターは、その珠玉のデザインで、真実、芸術と言えます。中央の素敵なテーブルの上には、コンピューターがいくつか置かれていますが、そのケーブルは見えません。ここでは又、大変モダンな美術館のバーチャル・ツアーを楽しむことも出来ます。このテーブルの上方にある大きな鏡には、フェルビンディングスカナールの水が映っています。素晴らしい茶色の筒型ランプ、背もたれのついた椅子、多くの鏡ガラスや、本物の小さなステージが、この部屋を形作っています。
 
 ミュージアムカフェがあった所に、新しいメンディーニ・レストランが出来ました。世界中で広く成功をおさめているダッチ・デザインに、その素材使いで大きく貢献しているStudio Maarten Baas(スタジオ- マールテン・バース)によるデザインです。レストランの調度は、工業用粘土を使い、手でデザインしたユニークなものです。バーも又特別なものです。
 
 又、アントワープのStudio Job(スタジオ・ジョブ)が、Job Lounge(ジョブ・ラウンジ)をデザインしました。超ヒップな魅力で、疑いなく、それについては意見の違い、賛否両論が出てくることでしょう。この部屋は又、婚礼やグループの会食にも使われます。とても目立っているランプは、デザイナーのJob Smeets(ジョブ・スメーツ)によるもので、「tieten(乳房)」と名付けられています。ケース・ファン・ツヴィストはそれを「gevulde condooms(充満したコンドーム)」と呼ぶ方を好んでいるのですが、それが先に述べた意見の違いでないことは確かです。


ハイメ・アニョンがデザインした
新しいインフォメーションセンター


写真:Peter Tahl(ペーテ・タール)
© フローニンゲン美術館
 

メンディーニ・レストラン、スタジオ- マールテン・バースのデザイン

写真:ペーテ・タール © フローニンゲン美術館
 

ジョブ・ラウンジ、アントワープのスタジオ・ジョブによるデザイン

写真:ペーテ・タール © フローニンゲン美術館
 
 この日、美術館の中のカウンターで、特別なキーホルダーをもらいました。これを使って、訪問者自身で展示作品のインフォメーションを集めることが出来ます。この「GMコレクター」はフローニンゲン美術館のために、アムステルダムの Ijsfontein(アイスフォンテイン)がデザインした特別なものです。作品のいくつかは傍の壁に小さなケースが取り付けられているので、そのケースの前にキーホルダーを持っていくだけです。新しく出来たインフォメーションセンターで、自分のフローニンゲン美術館コレクターのページに登録することが出来ます。家に帰るとGMコレクターからメールが届き、そのリンクから自分のコレクションの作品の写真と、それについての情報(オランダ語)を読むことが出来ます。
 
 
(注1)Mikhail Shvydkoy(ミハイル・シュヴィドコイ)前ロシア文化大臣の言葉
 
 トップの写真: 『ロシアの民衆』 (1916-1917) - イェヴゲーニ・ランセ
 
 

今フローニンゲン美術館では、『フローニンゲンのシルバー』(写真上)
『自身のコレクションからのハイライト』、『火の鳥』も開催中です。
 
 
写真のページへはここをクリックしてください。
 
 
>>フローニンゲン美術館のサイト(英語)
 
 
 



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