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日本の自殺
 
 トランキールは「アベルタスマンと日本」で、1849年に出版された『ルーチェハストのアベル・ヤンスゾーン・タスマンの旅と探検』から日本に関わる部分を紹介していますが、そのⅣに切腹についての記述があります。

 日本人の死の意識について、現代オランダの哲学者が考察した論文があります。ヘンク・オースターリング著「日本の死の倫理と意識 無の肯定」で、『理性の危機? 文化の観点』(1992年 Van Gorcum出版)に収められています。著者はロッテルダム生まれ。ライデン大学、エラスムス大学で哲学・日本語を修め、大学での哲学・美学の教授や数多くの著作活動の傍ら、様々な委員会で活躍されています。一方、氏は日本で剣道を学び、剣道のオランダチャンピオンにもなっています。
 
 オースターリング氏は、剣道を通した日本の伝統的世界の経験に基づき、日本の文化にとてもユニークな視点を持っておられます。以下、氏の論文を要約して紹介します。
 
 
<要約>
 
 現代日本は先端技術を駆使する一方で、古い儀式や習慣を持続しており、西洋の基準からすると文化の折衷主義、経済の便宜主義とみなされますが、それはより深い根を持つものです。
 これは日本が、ペリーによって開国を、マッカーサーによって民主化を、強いられたためで、700年かけて西洋が形成してきた「普遍的」価値を、日本は100年で消化しなければなりませんでした。その消化不良の短い期間は、社会文化的な精神分裂症状を引き起こしました。
 
 そのトップにあるのが、日本の二度のアポカリプス、集団としての死の体験です。一つは「天皇の人間宣言」で、もう一つは広島と長崎での原爆体験です。
 ローマ法王が「私はもはや神の地上での代理人ではない」とCNNで宣言した場合の熱心なカトリック教徒の反応を想像すれば、前者による日本人の精神的打撃が理解出来るでしょう。虚無的な無気力、無力感に陥ったことは間違いありません。
 
 日本で死は核心をなす事柄です。日本には切腹という儀式的な自殺の方法があり、これは西洋の自殺の認識とは全く異なった価値観を表しています。
 又、日本の自殺者数は世界の他の地域と変わらないのですが、周囲からの圧力の下にある非生産者、若者や老人の割合が、不釣合いに高くなっています。
 西洋では、自殺は病理学的衝動によるものと見なされます。超越神に基づく道徳は、自殺に肯定的な評価を許しません。しかし、日本の神道は道徳に基づいてはいません。審美的な価値としての「清らかさ」がその中心にあり、邪悪は儀式による清めで取り除かれます。華道から日常の礼儀正しさまで、この清められた礼儀作法、この儀礼的な態度に帰しています。
 日本では「美しくあること」が最重要で、演技、形式としての「建前」が存在します。暴力行為も、道徳的な悪として拒絶されることはありません。犯人に対する判断基準は、純粋であったかどうかです。
 神道と並んで、日本の武人階級(武士/侍)の禅仏教が自殺の観念に影響を及ぼしました。日本の国民的シンボルの桜の花は、短いけれど極めて美しい命を象徴しており、それぞれの命が、美しいけれど強いられた死の中で完成します。日本人は今も儚さを意識しています。
 
 個人という観念がないことは、日本で個人の決断はいつも集団の和、調和を考えて為されるということを意味しています。日本人は、家族を基盤に天皇を頂点としたピラミッド型に構成された多くの義務の輪の中で巧みに生きます。それぞれの義務は、礼儀にかなった返済「義理」を要求しています。日本人の誇りは「和」と「義理」のための自己犠牲の上に形作られています。日本人にとって、西洋の個人の良心に基づいた自尊心は、エゴイズムの最たるものです。
 
 この背景において「切腹」は集団の名誉のための儀式的な自殺で、「義理」の究極の形と言うことが出来ます。そのような捧げられた死は、倫理的な共同体を示しています。キリスト教でこの儀式は、キリスト受難の伝統の延長である殉教者に関してだけ、考えられ得ます。
 切腹は1870年に公式には禁止されましたが、その肯定的な評価は今も存続しています。三島由紀夫や谷崎潤一郎は、自滅的な態度を敬愛しています。彼らの生き方は「死の願望」の証拠となるものです。この死の意識は、確かに日本文化に不可欠な構成要素です。そして酔っ払いへの寛容さも又その表れと考えることが出来ます。
 
 死の肯定的な経験を内側から理解しようとする時、西洋の思考のための定義、自律と他律、個人と社会、内面と外面、存在と無のような対立物は崩れ去ります。西洋人が「個人の良心」を見出すところに、東洋人は集団で決められた「義務」が及ばぬ限りない「無」を見出しているのかもしれません。
 西洋での分析でいつも前提とされる個人と集団の二分法は、日本の伝統の中には存在しない方法的前提であることは、明らかです。
 
 
 *この論文(オランダ語)の全文は: ここをクリックしてください。
 
 
 戦後に生まれた私たちは、個人の尊厳や民主主義などの言葉をよく口にしますが、実際の行動は集団で決められた義務に基づいているのかもしれません。時々はそのような義務から離れた無礼講が必要だと、人々が容認しているのかもしれません。もしかしたら、私たちは、そのような「義務の輪」から自由になることを「死への願望」として、どこかに抱いているのかもしれません ...
 宮本政於著『お役所の掟 – 英文版』のタイトル『Straitjacket Society(拘束衣社会)』が示しているような身動きの取れない社会からの脱出が、無意識の「死への願望」なのでしょうか?
 もしそうなら、おおらかに力強く生きる日本人の原像は、どこに求めればよいのでしょうか?どこかに存在していたはず、と強く信じているのですが ... 
 
 
>>Henk Oosterling(オランダ語)
 
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