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シートレイド・フローニンゲン
冷凍運搬船団を更に拡大
北日本造船株式会社(八戸)に
6隻の新しい船を注文 |
創立50年以上になるフローニンゲンの船会社「シートレイド」は、めざましい発展を遂げ、きわめて専門化した領域で今や世界をリードする地位を占めています。果物、野菜、乳製品、肉や魚など腐りやすい積荷のために特別に設計された冷凍運搬船を使った輸送でです。
2007年半ばに、既に大きな船団をもう一度6隻の新しい冷凍船で補充し拡大することが決定されました。その建造は八戸市にある日本の造船所、北日本造船株式会社に発注されました。この会社も又設立後約40年で、同じような目だった発展で知られています。
シートレイドが注文したこの6隻は、90年代にこの造船所に注文された5つのストリーム船の中の一つ「コモラス・ストリーム」をモデルにしたもので、その違いは更に5万立方フィート大きくされることです。その時建造された他の4隻は「アグラス・ストリーム」、「ベングエラ・ストリーム」、「クリッパー・ストリーム」、「ロイヤル・クリッパー」ですが、これらはシートレイドによって注文された最初の船ではありません。その栄誉は、80年代の初め既に八戸で命名式が行われた「アンタールティック」が浴しています。
1951年5名の船長‐船のオーナーたちがフローニンゲン市に自分達の事務所を持つことを決めました。これがこれからどうなっていくのか、彼らには全く分からなかったのは当然のことでした。ですから、とても単純に「スヘープファールトカントール(海運事務所)・フローニンゲン」と名づけられたのですが、それは外国ではとても言いにくい名前でした。
新しい5名のオーナーはすべて、伝統的な沿岸航行に根づいた人たちでした。今日でもチャルク(小型帆船)やスクーナー(帆船の一種)で海を航海する人はいますが、それは当時とは異なった用途で使われています。
フローニンゲンで彼らが事務所を開設するのに先行し、航海が再び確かな成長を見せていました。これはまず、ノルウェーなどスカンジナビア諸国からの木材の需要の増大によるものでした。そこに、泥炭の取引が直面したような、国の経済の下降がやってきました。そのことも、船長たちをますます内陸水路から海へ向かわせました。後に市場は回復しましたが、すべての船長たちを内陸水運に戻らせることはありませんでした。彼らはもう素早く、より大きな船を作らせていました。それらは、泥炭がもはや採掘されなくなった泥炭地帯の集落に出来た造船所で建造されました。世紀の終わりごろまで、オランダ国旗を掲げる航海船の50%近くが、その泥炭地帯の集落を母港としていました。
変化は更に続きます。木造船は鉄製に、帆はますますモーターにとって代わられました。
ちょうど60年代に、帆走する貨物船はその舞台から姿を消したのですが、帆船での航行は実際のところ30年代に終わったと言うことが出来ます。
フローニンゲンの船は帆がモーターに代わることで、ますます大きくなってきました。およそ100トンから300トンへ。いわゆるフローニンゲンの沿岸貿易船、いわゆる「フローニンゲンのポット」、が知られるようになったのはこの時代でした。
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事務所開設から最初の10年間は、もちろん沿岸貿易船が大きな役割を果たしていました。しかし、世界はますます小さく、船はますます大きくなっているように見えました。新しい技術が開発されれば、また更なる新しい技術の開発が続きます。絶えずより速いテンポで技術が開発され、その結果、夢見ていただけのような市場が現れます。
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その後10年でその名前が変えられることになるスヘープファールトカントール・フローニンゲンは、「アークティック」で冷蔵貨物船の国際的な市場に参入します。沿岸貿易を主流としていた会社は、本当にユニークな決断をしました。数字は、それが良かったことを示しています。10年足らずの後には、既に15隻の冷蔵貨物船が船団となっています。
会社は安定した近代化を実行しました。社名も変更され、1973年に「シートレイド」という名前になります。その3年後、役員であった創設者の3名が引退し、若い世代にその地位を譲ります。彼らは有能で意欲的。全力で向上を目指します。
印象深い新建造計画が作られ、それによって果物や魚などを運ぶ新しい市場を世界に求めようになります。この若い世代は、シートレイドの名が、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、極東の港で知られるようになることに成功します。
1989年、冷蔵貨物船で専門化していたロッテルダムのダマーズ&ファン・デル・ヘイデ・スヘープファールト社を買い入れました。
その結果として、シートレイドはこの領域の市場で世界最大の船会社へと発展しました。
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北日本造船株式会社 本社社屋 |
60年代、北日本の太平洋沿いに位置する八戸市(青森県)の鉄工関連工業会が造船所の設立に全力を傾け、市当局が協力し、その実現を遮るものは何もありませんでした。その建物は今なお行われている古くからの建築儀式に則って建設され、1969年4月5日「北日本造船株式会社」という名前で開所式を迎えます。その成功物語の始まりです。
そのアイデアがある程度しっかりした形をとり始めた時から、設立者たちは鋼鉄船舶の建造に優れた地域の造船所を考えていました。最初の数年間は主として漁船の建造・修理が行われていましたが、漁船建造数の激減が明らかになってきたため、70年代には他の市場に向かうことが決断されました。その会社に収益をもたらすことになる選択でした。
会社は成長を続けます。それがどの様なものであったかは、次のことから分かるでしょう。 1982年に完成された建造船台は3,800総トンのものでしたが、3年足らずの後には4,500総トンへと拡張されます。その後1990年から2003年の間に、時折の短い中休みをはさんで9回の拡張が行われ、19,500総トンまでの船に適した建造船台となっています。
それと並んで、ドライドックも12,000総トンまでの船に使うことができます。
八戸本社工場の敷地は56,434㎡でその約三分の一が建物面積です。2年前には二つの新しい工場が設立されました。本社近くに配管・艤装工場(北沼工場)、八戸市から約60㎞南の久慈市(岩手県)に新しいブロック工場(久慈工場)が建設され、両者を合わせた73,844㎡が更に総敷地面積に加わりました。
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建造船台、建造ドック |
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150tクレーン |
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久慈工場 |
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進水様子 |
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200トンのフレームベンダー、500トンの油圧プレス、40基以上のクレーン(最大150トン)を有し、押船や曳船も働き、至る所に活気が溢れています。
しかしまだこの驚くべき成長は継続中で、建造船台、及びドック建造の平行建造体制により、更なる設備増強、整備等を整えています。
八戸の造船所で建造された最初の船はおよそ50トンのものでしたが、今日では3万トン以上の堂々とした大洋の巨人が生み出されています。ケミカルタンカー、液体ガスやオイルのタンカー、Ro/Ro船や冷凍運搬船等々。それにより北日本造船株式会社は1,000名を超える従業員を有し、世界的な名声を獲得しています。 |
艤装岸壁 |
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起工式 |
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© 2008 Trankiel
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