Trankiel  Groningen - Japan
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造形芸術家 セバスチアーン・ハイケンス

心地よさが留まる世界の創造

 ニュウヴェスハンスのギャラリー・ヴィークⅩⅩへの訪問に先立って、ギャラリーのオーナーであるフランス・ブールスマ氏から「ギャラリーと関係する造形芸術家の一人、セバスチアーン・ハイケンスが、日本にぞっこん惚れこんでおり、近頃歌舞伎からインスピレーションを得た作品を制作しています。」ということを書面で知らされていました。
 私たちは、マタイス・ローリングから学んだ、この若き画家に興味を抱き、フローニンゲン市のインドネシア地区にある彼のアトリエ兼住居を訪ねます。
 アンティル諸島の人、元オランダ領東インドの人、スリナム人、モルッカ諸島の人。
通りの名前(インドネシアの地名)と関連して、この国の植民の過去を思い浮かばせます。
 前世紀の30年代、40年代からの建物は、ますます古びてきており、並んだ家屋の全体が解体業者によって取り壊されています。そしてそれによって解放された地面の上に、新しい建物が建ちあがります。セバスチアーンの家の前、通りを隔てた向こう側でもそれが始まっており、セバスチアーンは開けたドアの傍らに立ち、残念そうな表情でこの変化を眺めているように見えます。

 短く挨拶を交わして家の中に入った時、さっきセバスチアーンの眼差しの中に気づいたものを、部屋の様子が更に説明します。
 頭の中にひとりでに、もう意識にのぼらなくなっていた若い頃の映像が浮かんできます。セバスチアーンがドアの上に描いた絵が、さらに思い出を蘇らせます。

 東京のアパートで暮らした学生時代。もっともフローニンゲンと東京では住宅事情は全く異なるのですが ... 自分の興味のあるものだけで、頭も部屋もいっぱいだった ...
 窓に面した古い机は、紙、ペン、鉛筆、本、スケッチブック、絵具などで上面がほとんど覆われ、コーヒーカップと灰皿もその隙間に。壁面には本棚が並び、その中に様々な種類の本、CD、LPがぎっしり詰まっています。一枚のポスターと、ドア板全面に描かれた絵 ...

 私たちはドア近くに置かれたソファに腰掛けます。
 
 「コーヒーは如何? パン食べますか?」
 コーヒーをいただきながら、しばらく、文学、芸術、音楽など互いに興味のある話題を楽しく雑談します。音楽に関しては、ボブ・ディランのCDやレコードがたくさん並んでいるのが、すぐ目につきます。
 「ディランが好きなんですね。」
 「はい、とても。彼はインスピレーションの一つと言えます。」


インタビュー

セバスチアーン、あなたがヴュイヤール、ボナール、チチアン、レンブラント、フェルメールといった画家をとても尊敬しているということを、読んだのですが ...

西洋絵画の伝統の中で育ち学ぶという環境だったので。それらの画家たちのコンポジション、表現方法、色や絵の具の抜群の使い方を、とても尊敬しています。私は自分のことをまず、色彩画家 ... 印象派の画家と思っています。先に挙げた画家たちは、おそらくレンブラントを除いて、偉大な色彩画家で、美しさと壮大さの再現いう考えを抱いていました。私自身もそれを追求していきたいと思っています。純粋に技術的な視点からも、よく見ていこうと思っています。例えばチチアンは、油絵の具の「ウェット・イン・ウェット」の技法を早い時期に使った画家の一人です。


あなたは日本にとても魅せられているのに、この中には日本の画家の名前は全く挙げられていませんが ...

(笑って)それはただ、まだ知らないことが多すぎるからではないでしょうか?
私が東洋の絵画、特に日本の木版画に夢中になったのは、ちょうど1年ぐらい前からです。初めに言ったように、芸術一般や絵画について関心を持ったのは、まず西洋の伝統でした。
ヨーロッパの伝統が素晴らしく豊かだったことと、それと同様に豊かな東洋の伝統と接する機会が最近までなかった、というのがその理由です。
主としてフランス印象派の画家たちに夢中になり、彼らを通じて北斎や広重に出合いました。モネ、ゴーガンやファン・ゴッホのような画家たちが、一時この絵画形式に没頭した、ということを読みました。もっと知りたくて、日本の木版画への興味がますます強くなりました。
彼らが、どのようにその表現形式を発達させたのか、良く知りません。その色 ... コンポジション。西洋のものと比べると、とても違っていることが分かります。とても平面的で ... 遠近法の扱いもとても異なった考え方をしています。素晴らしいと思いました。今の段階ではその素晴らしさをうまく言葉で言い表せないのですが、自分の作品の中で、両方の考え方を結び合わせた表現形式を見つけたいと思っています。



あなたは1979年にフローニンゲン市で生まれました。その頃のことをもう少し話してください。

ムルタトリ通りにあった両親の家で生まれました。その後、家族と一緒にファン・イデキンゲヴェヒに引っ越しました。少年時代はヘルプマン地区で過ごし、両親は今もそこに住んでいます。ローデ・クライスラーンのドクターK美術学校で、幼稚園、小学校を終えました。それからヘルパープレインにあるミドルバーレ・スホール(中学・高校に相当する学校)に進みました。今は、大きなアルバート・ハインのスーパーマーケット)があるところです。
又、後に私の先生の一人になるマリオ・ター・ブラーク氏も、その頃家の裏に住んでいた隣人でした。



その頃学校で、図画の時間が好きだったのですか? もう既に、絵画に興味を持っていたのでしょうか? 遺伝的なもの?

図画は確かに好きな教科でした。手ですることの方が数学の計算よりずっと好きでした。遺伝的かどうかですか? フム ... それは良く分かりません。すべての人がそれぞれ自身の中に才能を持っている、と以前考えたことがあります。言語、書くこと、描くこと、スポーツ、数学の計算など、様々な才能を。 
ある人はあることが他の人より少し感じやすい、と言えるのかもしれません。
いずれにせよ、自分としては才能という考えにはあまりとらわれていません。ただ努力するだけと思っています。何かに到達するために戦うこと。他の仕事との違いは、65歳になってもまだ続けるだろうということです。



努力と学び。あなたはミドルバーレ・スホールを卒業後ミネルバに行ったのですか?

ズヴォレのヴィンデスヘイム・ホーヘスホール(上級職業学校)の、造形芸術とデザインの教師養成コースで学びました。ここを2003年に卒業したのですが、まだ学び足りないと思っていました。
ある時、マタイス・ローリングがミネルバで教えているということを聞きました。その芸術アカデミーには正式に入学しませんでしたが、彼のところに行って、絵画・デッサンの授業が受けることが出来るかどうか尋ねました。彼はそれに同意してくれました。
7年間、彼の下で絵画とデッサンを学びました。マタイス・ローリングから、画家としての秘訣を数多く学びました。絵画への愛、良いパレットを作る必要性、色遣い、等々。私自身今なお学び続けているのですが、これらすべてが、今の私へと導いてくれました。
デッサンに関しては、ヒュールト・ファン・ダイクからも多くを学びました。彼は私に見ることを教えてくれました。
ズヴォレには私の元隣人のマリオ・ター・ブラークがいて、彼から、自分が取り組んでいることの目的、考え方、その自覚の重要性を教わりました。
それらは本当に不可欠な基礎知識であったと思います。



あなたにインスピレーションを与える特別なものがありますか?

難しい質問です。というのも、とても多くのものからインスピレーションを得ていますから。
まず、世界の豊かな絵画の歴史が挙げられるかもしれません。そこからある認識を得、それを作品の中に表現出来たなら、それぞれの画家からインスピレーションを得たことになるでしょう。これはフィギュラティブな絵画だけとは限りません。
もう一つの大きなインスピレーションの源は、先に話したように、音楽です。ボブ・ディランやライ・クーダーのようなアーティスト。音楽もリズムとメロディーの一つの形 ... 私自身が作品の中で追及しているものです。コンポジションという言葉が、絵画と同様に音楽にも使われるのも、意味のあることだと思っています。
その他、日常の小さなことからも、インスピレーションを得ています。マーケットを歩いている時、屋台に並んだ品々を消費のための商品としてだけでなく、美しい形や色を持つ対象として見ます。本当にインスピレーションは、「街」そのものから得られます。そう、ユーモアのように。又、本、物語、神話などからも得ることが出来ます。とても多くのものから私はインスピレーションを得ています。描く価値のあるものはすべて、努力する価値があります。



日本について話す前に、もう少しフローニンゲンのことを話しましょう。人として又画家として、あなたにとってスタット(フローニンゲン市のこと)とオメラーント(市の周辺、スタット以外のフローニンゲン州)は何を意味するのでしょうか?
特に何か惹かれるものがありますか?
 
私のルートは完全にここにあります。オメラーントよりもスタットに、ということを付け加えなければなりません。しかし、フローニンゲンの田舎を描くため、かなり頻繁にオメラーントに出かけた時期がありました。
レイトディープ地域は、画家にとって素晴らしい広々とした自然地域です。だから、「デ・プルーフ」に集まった画家たちが、そこをよく描いています。他の人たちも、です。
画家として私は、特にフローニンゲンを題材にしているわけではありません。私はスタットがとても好きで、住むのにとても良いところだと思っています。ですが自分自身のことは、より世界市民だと考えています。それぞれの場所が独自の美しさを持っています。
それに私は、ある種の興奮なしには作品の中に静謐を創造することができません。
最後に付け加えると、北のフィギュラティブの画家というレッテルを張られることを、少し恐れています。誤解しないでください。それが恥ずかしいとかではなく、一度レッテルを貼られると、それから離れることが難しくなるからです。フィギュラティブであろうがなかろうが、自分が描きたいものを自由に制作したいと思っています。最後に、フローニンゲン、スタットとオメラーントは、画家たちを育む美しいところであるということを言っておきたいと思います。



セバスチアーン、その最後の言葉、有難う。そのことを十分強調しておきたいと思います。
それでは日本のことに入りましょう。どんどん話してください!

さて何から話しましょうか。あなたたち、あと数時間、時間がありますか? 最近の「歌舞伎シリーズ」から始めていいでしょうか?

私たちはうなずき、同意します。

Kabukispel 50x60
Kabuki Ⅰ 40x40
Kumadori 40x50

このシリーズの制作のために、私はずいぶん勉強しました。新しい主題については、いつもそうしています。主題にするためには、良く知らなくてはならないでしょう?
歌舞伎は、その形と色、コンポジションと役者の演技が、私を惹き付けます。日本は私にとってまだ知らないことがいっぱいある世界ですが、とても魅力があることは確かです。歌舞伎を通して、そのベールを少し剥ぐことが出来るかもしれない、と思っています。
色彩画家だと自分で考えているように、私は色が大好きです。しかし、日本からは色よりも形をより多く学びました。そして、まず色を制限する必要を、理解しました。色とりどりの鮮やかさが優先してはいけないことは、確かです。歌舞伎役者や舞台装置のたくさんの絵を研究して、色を選びました。
又特に、歌舞伎役者が自分で化粧する絵を是非描いてみたい、と思っていました。何かで彼らは自分で化粧するということを知りました。しかし、どんなタイトルにするかで、困っていました。その答をセース・ノーテボームの本の中で見つけ、「くまどり」というタイトルをつけました。
歌舞伎は、劇場についての考え方でも、わたしの興味をひきます。日本の絵画について先に触れたこと、作品のコンポジションと空間表現、と同様に。どうしてこのように違っているのでしょうか? それは、長い歴史的な背景や儀式的なこととも関わっているのだろうと考えています。
初めの、私が浮世絵と出会った時に、戻りましょう。広重や北斎などの偉大な画家たちが使った、木版画の技術。その時代に素晴らしい芸術作品が制作されていますが、それらを是非一度、実際に見たいと思っています。
それらと出会った時から、私は日本に関するものすべてに夢中になりました。日本についてのたくさんの本を読みました。カレル・ヴァン・ウォルフォレンの本や、旅行や歴史物語もです。今はちょっと我慢しています。日本文学史についての大きな本が出版され、それがとても欲しいのですが ... 残念ながら予算オーバーなので。
日本の本では、村上春樹の本をたくさん読みました。最近は日本映画にもますます関心を持つようになりました。

私は日本という世界で、まだまだ新参者です。そこにとても行ってみたいです!そのための最初のステップとして、日本で木版の技術を学ぶためBKVBフォンズに奨学金の申請をしました。
日本に非常に魅せられています。日本、その人々、芸術や文化をよく知るため、そこで長い期間過ごしたいと思っています。


Kabukispel Ⅳ 50x20 Kabukispel Ⅵ 50x20

会話ははずみ、それは又非常に興味深いものでした。私たちはとても良い気持ちで、セバスチアーンのところを去りました。
彼は近いうちにきっと日本へと旅立つことでしょう ... そうなりますように!



>>Sebastiaan Haykens


トップの絵: Japans tafereel 40x50 - 2007年 油絵(パネル)
歌舞伎シリーズ は 2008年の作品


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