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エームス河口に位置する漁村、タームンターザイルは、最近日本にまで知られています。19世紀には重要な材木港でしたが、その後は、特に小エビ漁が収入源となりました。この頃では、この絵のように美しい小さな港には漁船は見られず、ますますレジャー用に使われるようになりました。残っているのは、その村を広く知れ渡らせていた小エビと魚です。
タームンターザイル、それはヴィア・ブーゼによく合っています。1970年1月2日に彼女がそこで生まれたということだけでなく、彼女の最初のヒットもそこから生まれました。1991年の「Ik
kom van Ziel(イク・コム・ファン・ジール:私はジールの出身:注1)」は、既に長い道を歩んだこの若い歌手の、大きな躍進と見られました。彼女は15歳の時、へニー・ハウスマンのサウンドミックスショーの予選ラウンドで歌い、ここから数多くスカウトされるようになります。それを機に、彼女に音楽の才能があるだけでなく、並外れた美声の持ち主であることも明らかになります。そして、成功がやってきます。彼女は優に200回、コンテストで入賞します。
大きな成功がそれに続きます。彼女は1991年にアムステルダムでヨルダーントロフィーの、そして4年後にはオランダ・ソングフェスティバルで勝者となります。
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その間に、彼女はフローニンゲン州で大変な人気になります。それがどれほどだったかは、地域の郵便、ヘット・ホーヘラントによって発売された彼女の肖像入りの切手の売上げ数から明らかです。少なくとも15万枚の切手が売られました。
彼女がよく公式行事に出演依頼されることは、決して意外なことではありません。2000年、彼女の出生地に建てられた新しいポンプ場の、ウィリアム・アレクサンダー王子によるオープニングの時のように。そしてもちろん、どうして他の歌であり得ましょう、ヒット曲「イク・コム・ファン・ジール」を彼のために歌い、王子はそれをとても喜びました。同じ年彼女は、スペシャル・オリンピックス・ヨーロピアン・ゲームズに参加し、フローニンゲン市のマルティーニホールのオープニングで、ロブ&フェルディ・ボラントによって特別に書かれた賛歌を、とても印象的に歌います。そして2年後には、市で開催されたもう一つの大きなスポーツイベント、ジロ・ドゥ・イタリアのスタートで歌い、再び称賛されました。イタリア人たちは感動しました。
しかし、これら全ての成功で、ヴィアは少しも変わりませんでした。彼女はスターのように振舞うことが嫌いで、トレーラーに設えたステージでも、完売のマルティーニホールでも、同じように喜んで立ち、歌います。
ですから、この若き女性が2005年に、K・テル・ラーン賞を受賞したのは、もっともなことです。この賞は、フローニンゲンの言葉や文化に功労のあった人々や団体に与えられるものです。審査員のレポートの中で、特に彼女がPABO(初等教員養成学校)を1996年に修了し「小学校でのフローニンゲン語」プロジェクトに献身したことで受賞した、と述べられています。そのレポートの終わりにこう書かれています。
「ヴィア・ブーゼはフローニンゲンとフローニンゲン語を代表するのにふさわしく、彼女自身が言うように、その言葉は、彼女が倒れる時まで歌い続けられるでしょう。」
そして2007年の今、彼女の豊かなキャリアに新たな挑戦が加わります。戯曲の古典「オプ・ホープ・ファン・ゼーヘン(注2)」の現代版でクニールチェの役に抜擢されました。それは、とてもユニークな舞台、デルフザイルの港で、8月30日から9月9日まで公演されます。
本物のスペクタクルを約束する、ミュージックシアター・プロジェクトのサイトで、彼女自身が次のように話します。
「私はオプ・ホープ・ファン・ゼーヘンの上演を、新しい挑戦と思っています。私は毎週舞台に立ち歌っていますが、それは既に何年もやってきていることです。オプ・ホープ・ファン・ゼーヘンは又良いタイミングにやって来ました。それは、劇、歌、ダンス、その他たくさんのものが含まれていて、素晴らしい公演になると思っています。それを上演する迄に、まだたくさんのことをしなければならないのですが、早く9月になってほしいと思っています。」
ヴィアを知っている私達は、彼女が女優としても自分を確立するであろうと、強く確信しています。しかし、一つのことは今もうはっきりしています。この作品の100年余りの歴史の中で、漁師の未亡人クニールチェの役が、本当の漁師の孫娘によって演じられるのは初めて、ということです。ヘルマン・ハイヤーマンスはとても喜ぶだろう、私達はそう思っています。
(注1)タームンターザイルはフローニンゲン語でタームンタージール。フローニンゲンではそれを短くして、ジールと呼ばれることが多い。ジールスターはジール(すなわちタームンターザイル)の地の人のこと。
(注2)「オプ・ホープ・ファン・ゼーヘン」は1900年にヘルマン・ハイヤーマンスによって書かれた戯曲で、これまでに数多く上演されています。
インタビュー
フローニンゲンの人。あなた方のところで言うような、生粋のジールスター。
はい、私達にはタームンターザイルは、ただのジールです。フローニンゲンの人がよくするように、短くしています。
ご両親は?
父は祖父のところで漁師の下働きをしていましたが、漁業がますます衰えてきた時アルデルの鋳物工場に行きました。母は主婦でした。
あなた自身に近い家族、その仕事が、あなたにとって作詞のインスピレーションの源なのでしょうか?
今まで、自分自身での作詞はそんなにたくさんはありません。2、3の詞だけで、最近のCDに入っている「ブリーフ・ノホ・エーヴェン(もう少し、いて)」。夫の家族の離婚を見て、それを書きました。私自身の生活に関わる歌詞がいくつか、私のレパートリーになっていますが、自分では書いていません。私の歌詞は、州のいろいろな方々、良い作詞家の方々からのものです。その人達の名前をちょっと挙げると、アリャ・ファン・ボルハウス、シム・ノールトホフ、アン・カウパー、フランシーン・カウパー、ヘンク・パウスター。
あなたは、いつから歌い、最初の舞台はいつ、どこででしたか?
1985年からです。へニー・ハウスマンのサウンドミックスショーでした。それ以前にも、学校のフェスティバルで何回か歌っています。そこで私達はザ・ノース・スター・ショーバンドと一緒に歌うことが出来ました。そのキーボード奏者、ピート・リングベークは私たちのドイツ語の先生でした。教室の後ろにピアノがあり、ドイツ語の文法のより、ずっと素敵に思っていました。
フローニンゲン語のジャンルを意識して選んだのですか?
いいえ、ただの試しでした。デルフザイルのモレボーネンフェスティバルのために、フローニンゲン語で歌う歌手を探していました。私の母は当時いくつかの詞を訳していました。そのフェスティバルに私は選ばれなかったのですが、そうしているうちコンタクトがあり、アウトハウゼンでの歌の宵で歌えることになりました。そこでトゥーヒェフロイタースのアン・カウパーと出会い、彼女が「イク・マハ・ディー・ソウ・ヘールン・リーデン(あなたがとても好き)」という歌を書きました。実際、それがCD「イク・コム・ファン・ジール」の始まりでした。
どの分野の曲が、家でよく聞いている、あなた自身の好みなのでしょうか?
内容のある詞の歌が好きで、歌っています。最も良く聞いている歌は、バラードです。家ではとても異なった種類の音楽をかけています。ザ・イーグルス、パウル・デ・レーウ、セリーネ・ディオン...
フローニンゲン語にはいくつかの変種があります。東フローニンゲンでは、例えばヴェスタークヴァルティアとは違った言葉が話されています。歌ではどの種の言葉を使っているのですか?
オルダムトの言葉です。
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あなたの最初の大ヒットはタームンターザイルへのあなたの愛を歌った「イク・コム・ファン・ジール」でした。あなたは、この漁村、漁業に特別な何かを抱いているのでしょうか?
はい、まず、言われているように、私はそこで生まれ育ちました。その歌はアン・カウパーによって書かれ、彼女も同様タームンターザイルで生まれ育っています。それから、この歌詞の内容で特別なのは、私が漁師の孫娘だということです。そして...
私の父も又、祖父の船で働いていました。
アン・カウパーが生粋のジールスターであることは知りませんでした。あなたの村では、歌や音楽がよく聞かれたのでしょうか?すぐにフォーレンダムやウルク(両方とも音楽の盛んな漁村)のような所のことが思い浮かびます。漁業と歌は相性が良いと思いますか?海がインスピレーションを与えるのでしょうか?
漁業と航海、歌うことの相性が良いことは明らかです。多くのシャンティが書かれていることを、ちょっと見てください。しかし、例えば、私の祖父も父も共に漁師でしたが、歌っていませんでした。私たちの家庭に歌があったとは言えず、実際のところ歌っているのは私だけです。
あなたはフローニンゲンのトップで、多くの人から人気を得ています。オランダの他の場所ではどうなのでしょうか?そこでもよく公演しているのでしょうか?
1年ぐらい前まではそうで、主にオランダ語や英語のレパートリーで、時々フローニンゲン語の歌も歌っていました。とても多くのコンテストへの参加を通して、私は全国的に見られ、知られていないということはありませんでした。むしろよく知られていると思います。しかし最近の数年は、特にフローニンゲンとドレンテで公演しています。歌と並んで、私的な生活があります。家族や友人と過ごす時間が素敵だと思っています。何年も、そんな時間はありませんでしたから。だから、意識的な選択。
あなたが歌ったオランダ語や英語の歌のタイトルを挙げてくれますか?
オランダ語では、「ラート・メ・アレーン」や「デ・フルーヘルス・ファン・マイン・フルフト」のような歌。英語の曲では、「フラッシュダンス」、「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー」、「チャイナ・イン・ユア・ハンド」など。かつてはとてもたくさんの英語の歌を歌っていました。
私達は、ロバート・ロングがあなたの歌にとても感動したことを知っています。それが何かをもたらしましたか?
彼はファンになり、彼のプログラム、メゾの中で、私の歌をよくかけてくれました。彼は、歌っている言語は何も違いを生じないことを、納得させてくれました。歌はその中の情感と関わっている、と彼は結論しました。そして...
彼は全ての歌を、次々と一語一語歌いました。彼が大好きな歌は、「リディア」でした。最後の数年間、私達はよく連絡し合い、時々公演で会っていました。2004年に、彼はCD「イク・ビン・イク(私は私)」の初盤を受け取りました。彼が昨年亡くなったのは、とても残念です。オランダは、素晴らしい人物、作詞家、歌手を失いました。
もう少しこのテーマに留まって。フローニンゲン語のジャンルが全国的に、リンブルフ語のロウエン・ヘーゼ;アハターフーク語のノーマール;フリースラント語のデ・カスト...
に達さないということを説明できますか?
いいえ、何も説明できません。フローニンゲンには、オランダで躍進する可能性のあるバンドが充分います。
あなたは、音楽クラブ、コーニンギン・ヴィルヘルミナとも一緒に公演しています。大きな楽団と一緒の公演をどう思いますか?
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過去10年間、フローニンゲンとドレンテの様々な音楽クラブと一緒にとてもたくさん公演してきました。最初の公演は、地域の警察音楽隊フローニンゲン、フルーノ・ポストハーモニーと一緒でした。これらの音楽隊は、どちらも同じ、ヴィム・ヨンゲンが指揮していました。彼が私の歌のいくつかを吹奏楽団やファンファーレのために編曲してくれました。私と一緒に演奏したい楽団があれば、ヴィムの編曲を使いました。
音楽クラブ、コーニンギン・ヴィルヘルミナもそうしましたし、それによってより多くの公演が出来ました。 |
他が良くないというのでなく、付け加えておきたいのは、コーニンギン・ヴィルヘルミナは、私が一緒に歌うのに最適な楽団の一つだということです。楽団と一緒に歌うのは素晴らしく、バンドと一緒の時よりずっと素敵です。しかし、残念ですが、いつもそうできるわけではありません。ほとんどの公演はバンドと一緒です。それで私は、時々一人のピアニストと一緒に、又年に一度ホーヘザントにある劇場ヘト・キールゾフでユール・エクハルツの楽団と一緒に公演しています。その他にも、アーティスト達が伴奏しライブで歌うプロジェクトに参加しています。私はもっと多く楽団と一緒の公演をしたいと思っていますが、私を楽団と一緒に公演させるのが、団体にとって、ただ高すぎるのだと思います。だから、バンドになります。
年にどのくらい公演しているのでしょうか? 国境を越えて、東フリースラントでも?
年に約60回公演していると思います。ある年は少し多く、ある年はおそらく少し少なくというように。ほとんどの公演を、フローニンゲンとドレンテで行っています。東フリースラントでの公演はほとんどありません。
フルタイムのアーティストですか、それとも他の仕事もしているのですか?
公演の他に週に二日、教室に立っています。アピンハダムのノーダーポールトコレージェで授業をしています。14才から16歳までのVMBOの生徒達に、オランダ語と社会科をです。
あなたは今「オプ・ホープ・ファン・ゼーヘン」でクニールを演じようとされています。あなたの初の演技です。どのようにこれが実現したのか、この‘新しいこと’をどのように経験されているのか、話してくれますか?私達は女優ヴィア・ブーゼをもっと期待できますか?例えば、フローニンゲンのソープ、ボーフェン・ヴォッターで役を演じたいと思いますか?それとも、これはあなたにとって、一度だけのものなのでしょうか?
クニールチェの役は私にとって始めての演技です。演じることに関して、まだとても多くのことを学ばなければなりません。しかし、演じることはとても素敵ですし、他の役が来るかもしれません。ボーフェン・ヴォッターでかもしれません。分かりませんが、それはとても素敵です!
歌詞を覚えるのと、台詞を覚えるのとでは違いがありますか?
歌詞は全体ですが、一人の劇の台詞は全体の一部です。劇の台詞では、共演者のことを考えなくてはなりません。それは私には新しいことですが、今までとても上手くいっています。更にまだ、この劇の台詞を言いながら、いろいろな演技をしなければなりません。それはもちろん、歌詞ではないことです。ですが...
歌手としては、あなた自身がすべてを決めます。今、あなたは演出家に従わなければなりません。あなたにとって、それはどうなんでしょう?
それは全く問題はありません。実際、ただ私に経験がなく、演出家はどうしたいか知っていて、多くの役立つ助言を与えてくれます。ですから私には特に、とてもよく聞くことが大切です。又、私のオプ・ホープ・ファン・ゼーヘンでの共演者の一人は、マックス・シーツェマです。経験豊富な人で、私にたくさん助言してくれました。私にはそれが本当にとても役立っています。
あなたは生まれた地からそんなに離れていないタームンテンに住んでおられます。エームス河口に接したところに。それは意識的な選択だったのですか?
1995年に私はハンスとつき合い、彼はデルフザイルに住んでいました。最初、私が彼のところに移り住んだのですが、数年後に私達は他の家がほしくなりました。少し大きくて家のまわりにもう少しスペースがあるもの。この家が新聞で売り出されているのを見た時、私達はそんなに長く考える必要はありませんでした。そして、言っておくべきなのは、私達はここにとても満足して住んでいます。素敵な隣人達、充分なスペース、そしてフローニンゲンの田舎でまだ見つけることができる安らぎ。
タームンテンはデルフザイル自治体の一部です。何か言うことはありませんか?
私は喜んでそこに住んでいると、言わなければなりません。
この自治体には、造形芸術、歌、音楽、ダンス、スポーツ... の分野で重要な人々が、かなり住んでいます。国内外でのチャンピオン達がいます。そんな人達と一緒に、実際デルフザイル自身にあるものを見せる、スポットCMに参加したいと思いませんか?
そのようなことをしてみたいと思うのですが、あなたも知っているように、彼等は他のやり方を選んでいます。これは、私個人にとって、結果として嫌なことがあったので、もう話したくないことです。
最近、デルフザイルから日本の姉妹都市周南市へ再び使節団が行きました。そのようなPR活動が、地方のアーティスト達を巻き込んだものになるなら、あなたはそれを歓迎しますか?周南へのデルフザイル使節団の訪問の間に、あなた自身公演したいと思われますか?
もしチャンスがあるなら、おそらく参加するでしょう。もちろん、それが他の仕事と調整できるなら、です。遠く海を越えた聴衆に歌を聞かせることより素敵なことがあるでしょうか?他の国を訪問してその文化について学ぶことはもちろん興味があるということを、それに付け加えることができます。
最後に。フローニンゲン州を10の言葉で表現してくださいと尋ねたら、あなたは何とおっしゃいますか?
私の場合は少し少なくて、4語です。フローニンゲンは私の家!
写真提供:
1 : タームンターザイルの堰: © Johannes Doornbos
その他の写真は、ヴィア自身のコレクションから使わせていただきました。
2+ 3+ 4 : © Willem 'Philo' Stoppels
5 : © Hartsuiker Communicatie Garmerwolde
6 : © Meijco van Velzen
© 2007 Trankiel
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