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アリィさんと芳江さんの物語

[4]出会い、そして周南市・広島を訪問
 
 先日、アリィ・ファン・アイゼレンさんから日本旅行のレポートが届きました。
 中でも周南市と広島への訪問は、特に興味深いものでした。周南市とのお付き合いが長いことや、広島は世界でシンボルとしての大きな価値を持っているからです。1945年8月6日そこで人類は最初の原子爆弾に遭遇しました。リトルボーイというコードネームの原子爆弾が、午前8時15分、エノラ・ゲイと名付けられたアメリカ空軍のB-29爆撃機から投下されました。その結果は一瞬のうちに7万~8万人(英語版Wikipedia より)が亡くなり、その後も多くの被爆者が死亡しました。心うつ「千羽鶴の少女」の物語も多くの人に知られています。被爆後10年経ってから白血病を発病し亡くなった、佐々木貞子さんの話です。
 
 この物語の第4回として、周南市と広島を訪問した2日間のレポートを先に掲載したのは、そのような理由からです。そして、その前の、二人の友人がそれぞれ夫を同伴して、長い年月の後に実際に逢うことが出来た、アリィさんとヴィムさんの福岡空港到着から始めます。
 
 

 
 
忘れることの出来ない旅行
 
福岡
2010年10月1日

 
 アムステルダムから香港経由 - そこでは自由時間があったので旧九龍を訪れるため少し街に出ることが出来たのですが - の飛行機はその長い飛行の後、20時45分きっかりに福岡空港に到着しました。税関で時間かかり、日本に来た理由を尋ねられました。係員は私たちの答えに満足したようでした。
 空港での出会いは、予想していた通りでした。とても嬉しく、すぐにお互いが、しょっちゅう会っているような信頼し合った気持ちになりました。ツタエとの出会いも、英語をほとんど話さないのは残念でしたが、とても心温まるものでした。
 ヨシエとツタエの家では、長女のシズカが息子のタカユキ(タカちゃん)と一緒に待っていました。彼女は私たちのために、横浜からわざわざやって来てくれていたのです。
 
 ………..
 

周南市の途中で

左から右へ:
笹村守さん、芳江さん、
靍岡舞子さん(市役所職員)
アリィさん、傅さん
 
 
周南市
2010年10月10日

 
 新幹線で周南市(徳山駅)へ。車内がとても清潔なことが、再び目立っています。紙くずも、落書きも、破損も、床にくっついたガムも、全くありません。ここでも又、車掌は白い手袋をはめています。車両に入って来る時、彼は帽子をとってお辞儀をし、私たちには分からない言葉で何か言います。とても親しそうに見えるので、問題はありません。駅も又、すべてが遠くから綺麗に輝いて見えます。オランダも、これからいくつかを学ぶことが出来るでしょう。
 
 私たちはササムラさんの招待で、周南市に向かっています。これは、2009年のデルフセイル期間中に周南少年少女合唱団の写真を何枚か撮ったことから、始まりました。子供たちは、周南市とデルフザイルの姉妹都市関係の中での公演のため、やって来ていました。


アリィさんと笹村守さん
 きっと喜んでもらえると思ったので、私はその写真をヨシエに送りました。ヨシエはそれを周南市に送り、それからあれこれあった後、私たちは今周南市に向かっています。
 
 ササムラさんが私たちを出迎えてくれます。数か月前からメールで連絡し合った後で、こうして彼と本当に会うのは素敵です。
 ヨシエとツタエはこの日、周南市で親類の人と会い一緒に過ごすことになっています。
 荷物をホテルに運んでから、私たちは、丘の上のゆめ風車も眺められる、周南市内観光をします。私たちがよく知っている風車、ファルムスムのエオリス風車(のレプリカ)が、ここ日本で、そのような高い所に塔のように見えているのは、とても奇妙に思えます。
 
<左>
町の上に高く立っている
ゆめ風車

 
 
<下>
練習中の
周南少年少女合唱団
 
 
 この後私たちは、合唱団の練習場を訪ねます。
 ホールには黒板が置かれ、私たちのための歓迎の言葉が書かれています。とても感動します。子供たちが、私たちに大変関心を抱いてくれていることは明らかで、心からの歓迎を受けます。
 
 素敵な歓迎のあいさつの後は、私が挨拶する番です。
 私はあがってしまい、もう何も英語の言葉が出てきません。幸いヴィムが少し慣れていたので、私の代わりに話してくれました。たくさんのプレゼントをいただき、それから練習が始まります。子供たちは歌い、踊ります。とても可愛く、本当に素晴らしいものでした。
 私たちはササムラさん、保護者のお母さんと一緒に昼食をとった後、フェリーで大津島へ向かいます。
 
  私たちのガイド:
  笹村守さん
 


大津島での魚釣り
 
 ササムラさんは釣りの竿と箱を用意しています。一時間ほど船に乗り、途中でイルカさえ見て、島に到着します。港はもう釣りをする人でいっぱいで、ヴィムとササムラさんは早速竿を投げ入れます。そして、オランダ人の血は争えません。ヴィムは一度に二匹の魚を釣り上げます。大きな拍手喝采が、他の釣り人たちから起こります。「オランダ」はやるなぁ!と。とても楽しいひと時でした。
 私たちは、かつての「回天」発射訓練基地にも訪れました。かなり長いトンネルが、そこに通じています。第二次世界大戦中ここでは、ミニ潜水艦が乗せられたゴーカートが、発射基地へと走っていました。
 テラスで紅茶を頂いてから、再び船で周南市へ戻ります。
 


かつての「回天」基地を訪問
 
フェリーから眺めた
周南市の工業地区
(その一部)
 
 私たちがリフレッシュし、あまりスポーティブでない服装に着替えた後、ササムラさんが再び迎えに来て、丘の高いところにあるレストランに連れて行ってくれます。私たちはここで、3人の日本舞踊の少女たち、マリコ(14)、カズサ(11)、マイ(7)、お母さんたち、3人の日本舞踊の方たちと一緒に食事をしました。まず、周南市とその港の素晴らしい景色を楽しみます。日が沈むところで、とても美しい眺めです。
 
 少女たちは、自己紹介と歓迎の挨拶のオランダ語を少し学んでいて、それはとてもチャーミングで可愛いものでしたが、一番幼いマイは緊張してしまい、少し後に泣き出してしまいました。私たちはそっとしてテーブルに着き、とても美味しく食事を頂きました。それは日本風のフランス料理、あるいはフランス風の日本料理でした。
 
 しばらくしてヴィムは、テーブルの向い側に座っている小さなマイの、気まずい気持ちをなくそうと試みます。彼は、自分の親指をなくしてしまう、手品のようなものを知っていました。それを見たマイの目は好奇心に満ち、もう一度見せてもらった後、自分でもやってみます。彼女はすぐ上手く出来るようになり、他の人たちの好奇心を誘います。その結果、少し後には皆が自分の親指を取ることに夢中になります。最高に陽気な雰囲気になりました!
 
 食事の後、皆がそれぞれ帰途につきます。私たちは車で、ササムラさん、カズサと一緒に、ライトアップされた風車を見てからホテルに向かいます。
 
 
 
<右と下>親指の遊び
 
 
 
周南市、ゆめ風車フェスティバル
2010年10月11日
 
 朝7時半に、ササムラさんが私たちを迎えに来てくれます。ヨシエとタツエ、私たち二人を連れて、今日私たちが参加するフェスティバルのための準備をしている所に向かいます。
 まず3人の日本舞踊を踊る少女たちが、化粧と着付けをしてもらいます。それらは時間をかけて行われ、私たちは興味深く見学します。
 
 
 
 それからフェスティバルに向かいます。私たちは通訳の人を紹介されます。彼女は、4年間リンブルフ州に住んでいた感じの良い若い女性で、オランダ語を少し話します。しかし朝の終わりには、私たち3人ともその方が簡単なので、英語で話しました。最初に、私たちと同年輩と思われる島津幸男市長に紹介されます。それからマーチング・バンドがフローニンゲン州歌を、私たちのために演奏します。とても嬉しく思いました。その後、オランダの球根の小袋を渡され、それをフェスティバルに来ている人達に配ります。皆が私たちを好奇の目で見ているので、「チューリップ に オランダ」、と私は精いっぱいの日本語で言ってみます。理解してもらえたかどうか分かりませんが、マーチング・バンドの後についてフェスティバル会場へと上っていく時には、球根をもう配り終えていました。私たちは会場のテントの中、市長の隣に座ります。果物を手渡された市長は、私たちにも分けてくれます。とても良い味でした!後でその名前が「あけび」であることをヨシエから聞きます。アピンハダムに帰り、はっきり分かりました。それは私たちの庭にも植わっています!この旅行でその種を持って帰っているので、家でも蒔いてみます。
 マーケットも開かれていたので、そこで美しいネックレスをいくつか、家に持ち帰るために、買いました。
 

<上>パレード - <下>楽しいマーケットと ... たくさんのインタビュー
 
 
 そうしているうちに、3つのTV局と、地方新聞の1つからインタビューされます。私たちは何だか女王の日の女王になったような気分になり、本当に気違いじみていましたが、素敵な気分でもありました。
 ステージでの少女たちの日本舞踊を見ます。彼女たちは、とても真剣に、とても美しく踊りました。そしてもちろん、合唱団も公演します。子供たちは、とても美しい古いヨーロッパの衣装を着け、様々な色のリボンを互いに上手く回して踊ります。
 他にも多くの出し物がありました。例えばフルートの合奏、チロル舞踊の女性グループ、などです。
 
<左>日本舞踊のステージ

<下>
周南少年少女合唱団、
石川由美子さんと一緒に
 
 
 

フェスティバルを楽しむ人々

周南少年少女合唱団と一緒に
 
 それから、風車へと向かいます。私たちは、まだずいぶんある上り道を歩き、とうとう風車に到着します。ファルムスムの風車とほとんど同じと想像していましたが、全くその通りです。小さなストリートオルガンが陽気な音楽を奏でています。そこにはフライドポテトもあります!それはオランダを意味しているのでしょうか、それとも、ここではごく普通のことなのでしょうか? 私たちは風車守の方たち二人の歓迎を受け、又再び素敵なプレゼントを頂きます。ゆめ風車が描かれた美しいカップ、小さな木製の風車、そして手品のような小さな木製玩具です。とてもよく説明してもらったのですが、今も私たちには良く分かっていません。風車の中に入ると、そこには古いオランダの物や服が展示され、木靴もそこにありました。
 私たちは風車の後ろで昼食を食べます。そこには瓶入りの冷たいお茶があり、私たちはそのようなお茶をよく飲んだのですが、それは喉の渇きに大変良いものです。又3人の日本舞踊の方々からとても美味しいサンドイッチも頂きました。
 最後にお別れがやってきます。とても感動的なものでした。プレゼントの数々、手を振ってのお別れ。「デルフザイルかアピンハダムで又来年!となるかもしれません。さようなら!皆さんの素晴らしい歓迎、ドウモ アリガトウ ..... 」
 
 


<左>風車守の方との出会い
 

駅でのお別れ
 
 私たちは周南市から電車で広島へ行きます。
 
 
広島
10月11日

 
 私たちは広島平和記念資料館を訪問します。このことを、どう言えばよいのでしょう。ここで、言い表すことが出来ないほど、ひどいことが起こりました。誰もが一度は、見ておかねばならないことだと思います。私たちは押し黙ったまま、他の訪問者たちと一緒に、そこを出ます。
 平和記念公園を歩きます。そこには、原爆死没者名簿が納められた石室のある慰霊碑、永遠の炎(平和の灯)、何千もの折り鶴が置かれた原爆の子の像、があります。私たちは又、建物の骨格以外は少ししか残っていない、原子爆弾が投下された時の思い出をよみがえらせる、原爆ドームも見ます。
 ヨシエは私たちにT字型の橋を指し示します。パイロットが、その恐ろしい爆弾を投下する時、目標とした橋(相生橋)です。
 
 夜になり、お腹が空いてきます。私たちは既にヨシエから、「オコノミヤキ」という素敵な料理のことを聞いていました。この広島の伝統料理が食べられる雰囲気の良いレストランを探し、そのような店に入りました。それはとても美味しく、資料館訪問後の私たちの気持ちは再び明るさを取り戻し、なごやかに食事を楽しみました。
 
 

広島風お好み焼き
 
 
文:アリィ・ファン・アイゼレン
写真:アリィ・ファン・アイゼレン、小島芳江

 
 
 - 続く -
 
 
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