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「 ..... フローニンゲンの土地の多くに、生き生きとした水の模様がつけられました。レーク、バータースヴォルデ、ザウドラーレン、フォクスホル、スヒルドメーアのような湖;ヴェスターヴォルデにあるような小川(ラウテン・アー
と ムセル・アー);港の水路、運河や水路、そして最も美しいのは、かつてワッドの溝であった部分である、かなりの数のモアで、今は釣り人やボート遊びの人達、写真家達の楽園となっています。
... ... フンジンホやフィフェリンホでは、それぞれの小さな村にも、モアが流れています。広々としたアウトハウザーメーデンにはマイスター・モア、ロトゥムにはコクスモア、小村スターテンハウゼンにはスターテンフースターモアのように。これらのモアは、排水、境の区切り、運搬に、さらにはスニク(曳き舟)やバールジー(平底の荷船)でスタット(フローニンゲン市)へ行く安定した航路としても使われました。」
(『Kijk op Groningen』第5版、Tom Bouws 編集、Elsvier-Amsterdam-Brussel, Elsvier
Focus 出版 B.V. 1979 )
ダムステルディープ
フローニンゲンと水、両者は切っても切れない関係で結びついています。プロヴィンスの豊かな歴史の中で、この関係はとても大きな役割を演じます。争いにおいても、又友好においても。港町デルフザイルやその周辺でも、この多くの例が挙げられます。ヴィールデ、ポルダー、堤防、水路。その水路は、かつてはスタット(フローニンゲン市)との連絡に、今では主にレクレーションに、重要な役割を果たしています。ダムステルディープの岸辺には、昔は多くの造船所、煉瓦工場等の工場が立ち並んでいました。
その水は、およそ1000年の間、今なおこの水路を流れています。最初は「デルフ」という、水路が掘られたことを表す名前でした。500年後、15世紀になってからやっと、ダムステルディープという名前になりました。
「デルフ」という古い名前は、その水路と14世紀の初めに建設された3つの水門(ザイル)に因んで名付けられた「デルフザイル」の中に、今なお残っています。その3つは、ドルプスターザイル、スロホテルザイル、スハルムステルザイルとして知られるようになります。後者の2つの名前については、はるか昔に遡らなければなりません。大きなフィフェル川がフローニンゲンの地を流れていた頃へ。
フィフェル川はスロホテル・アーエとスハルメル・アーエの二つの支流から生じていました。それらは州の南部に源を発し、現在のヴォルタースムの南方で互いに接近していました。特にスハルメル・アーエは大量の水を運んでいました。フィフェル川に移るところ、ロペルスム付近は川幅が70mにも達する水量でした。これが更にヴィアデの村ヴェステルエムデンに沿って流れ、今のエームスハーフェン近くのワッデン海に注いでいました。ヴェステルエムデンが重要な港町となっていたのは、このお蔭でした。
フィフェル河口のような入り江は、他にもありました。ラウヴェルス湾、フンゼ湾、そして忘れてはならないのが、エームス湾です。
これら三つのうち、エームス湾だけが残り、それも昔の姿ではなくなっています。ラウヴェルス湾はラウヴェルス湖に、そしてフィフェル湾はすっかり姿を消してしまいました。
フィフェル川の岸に沿って、当時ボルフやヴェールム(今日のヴィテヴィールム)のブルームホフ修道院のような、とても大きな建物が建っていました。しかし、今ではほんの少ししか残っていません。ヴィテヴィールムからテン・ポストへの道が、かつてのフィフェルの川床に建設されたという知識だけで、満足しなければなりません。
カール大帝がこの水の地域にやって来た時、制定した地区の一つにフィフェリンホ川の名前をとり、フィフェリンホ地区としました。このフィフェリンホは、アピンハダムを中心地として繁栄し、重要な地区となりました。
アピンハダムには商人や職人達が定住し、航海する船が出入りしました。外国や、自身の属する「自由フリースラント海の国々」の様々な地域との取引が行われ、国内外の商業の中心としてますます発展しました。そのような経済的繁栄は、当然多くの人々を惹きつけました。新しい居住者の中には、金細工師さえいました。その小さな市の当時の繁栄振りを、それ以上に証明するものはないでしょう。
かつてそのように存在していたフィフェル川は、その後900年頃、泥で埋まりました。この地域の住民達は、新しく水路を掘らなければ(掘る=delven:デルフェン)なりませんでした。それが、デルフザイルから海に出る、「デルフ」でした。その時にはまだ堰を設ける話はなく、デルフは潮の影響で曲りくねった形になり、川のように見えました。
それは後に、今日のダムステルディープという名前に変わり、住民達からはアピンハダムに因んで「ダーム」と呼ばれるようになり、多くの点で重要な働きをするようになります。例えば、スロホターの沼沢地やヴェステルヴォルデは北東への排水を得、住民達にはその水路を経てスタットとの連結をもたらしました。更にフレイレマボルフに住んでいたスロホテレンのヘール(領主)ウーセブラント・ヨーハン・レンハースは、1652年にスロホテレンからラウスハーブルフへの運河を掘らせました。これも又、ダムステルディープへ注ぎました。
ダムステルディープは、フローニンゲン市から北東へ、アピンハダムへ、東フリースラントの牧畜地域への幹線水路で、それを維持するためのかなりの仕事がなされました。又、17世紀の初めには、東インドのオランダ商人達を満足させるための改良も行われました。彼等はフローニンゲンの市当局に対し、エムデンからそこを通ってスタットまで航行出来ない不満を訴えていました。この種の苦情がなかったとしても同様であったのでしょうが、この世紀の間に、交通を促進し排水を改善するため、運河はかなり手入れされました。それは深く掘られ、岸には曳き道が建設されました。
ダムステルディープに関わる費用は、フローニンゲン市、州と、地域治水委員会デ・ドゥリー・デルフザイレンで負担されました。
しかし、人々はそれに満足ではありませんでした。19世紀の初めに、フローニンゲン市とデルフザイルの間に水運と排水のための新しい運河を建設する案が話し合われました。その提案は了承され、1877年に建設工事が始まりました。10年がかりの仕事。この新しい水路の開通後、ダムステルディープは一歩後退せざるを得ませんでした。1877年、オーステルハーフェンの堰の建設によって、フローニンゲン市はエームス運河と連結されました。同時に、スタットで東の要塞の堀が、ボーテルディープと連結させるために使われました。ダムステルディープがもはやそんなに重要でなくなったことは、明らかでした。そのことは何十年か後に再び、とてもはっきりします。ペトルス・カンパーシンゲルを建設するため、フローニンゲン市当局は、ダムステルディープとボーテルディープを結んでいた運河の埋め立てを提案しました。
ダムステルディープは何百年もの間、とても大切な生命線でした。1世紀半前には、その地域をこの国の工業の中心地にまで発展させたのですが、行政の決定に苦しみ、ただの水路の一つになってしまいました。
「一体何が起こったのだろう?」と人は自問します。「昔バイキングが暴れ、後には水運、造船、商工業、手工芸が隆盛を極めていた、盛況で重要であったダムステルディープに.....
」
時流を変え、ダムステルディープにかつての栄光を少し取り戻させるため、2004年、フィフェリンホ地区に「クロンケルス・ドーア・フィフェリンホ(フィフェリンホを通り抜ける曲りくねった小川)協会」が設立されました。その年の、北フローニンゲンの芸術・文化を表した「美しいハレルスヴェール」宣言は、大成功を収めました。協会はその目的について語っています。「この地域に根を持つクロンケルス・ドーア・フィフェリンホ協会の委員会は、住民の皆さんにこの素晴らしい周辺を再発見してもらい、地域の発展に貢献したいと考えています。自然、文化史、風景、観光やレクレーションを発展させるのに十分な資質、小さな活動に注意が払われています。その究極の目的は、住民や訪問客に『北の秘密の庭園』への関心を促すことです。住民は極めて多くの活動に参加しています。そのプログラムは、住民との親密な共同作業で実現されます。イベントやアクティビティを共同で開催することを強く意図しています。」
住民自身のイニシアティブと並んで、フローニンゲン州による、プロジェクト・イデンティテイツヴィシー・ダムステルディープ・フローニンゲンがあります。
風景の建築家、ボシュ&スラバース と ズヴァルテ・ホント が共同で作成した分厚いレポートが既に存在しています。
そのプロジェクトの内容は、「フローニンゲンとデルフザイルの間にあるダムステルディープは、掘られた水路です。ダムステルディープと平行して、所々でそれとの距離が変化して走っている、何世紀も昔の道路スタットヴェヒと、19世紀に建設されたエームス運河があります。スタットヴェヒ、エームス運河、ダムステルディープは、このプロジェクトの中で、発展の展望が話されている地域を形成しています。その中心は、ダムステルディープにより作られています。」
「契機」という項目には、フローニンゲン州がダムステルディープ地域の特別な文化史的、景観的な重要性を認識していることが、記されています。
そして、「作業の仕方」の項目には、フローニンゲン州、デルフザイルとアピンハダム自治体の職員を含む、プロジェクトグループ・ダムステルディープの監督下で実施される、と書かれています。フローニンゲンを知るため、その他テン・ブーアやロパースムの自治体、更には地域治水委員会ノーダーザイルフェストの職員も、付属グループに入っています。
最終的な実施は、庭と風景の建築家、ボシュ&スラバースによって行われます。
皆がこの地域が好きだというこのニュースは、とても嬉しいものです。「私達の古いダムステルディープ」がついに正当に扱われるでしょう!
上記は、今はもうダムステルディープやその周辺を楽しむことができない、ということを意味しているのではありません。ウォータースポーツ愛好家にとっては、本当に素晴らしい地域です。
カヌーセンター、ヴィルドゥマークラプで、周辺を漕いでまわるカヌーを借りることが出来ます。例えば、ヴィルドゥマークラプからスタートする次のようなコースは如何でしょうか。
ダムステルディープを経て、モダン・アートの展覧会が行われているボルフ、ルストホーフェンへ。それから、今はホテル‐レストランになっているエーケンステイン(これもボルフです)へ。さらに少し先には、枝流のオースターヴァイヴェルダーマールがあります。そのヴィアダの村、オーステルヴァイヴェルトは、昔は水運でかなり知られていました。そこのエートカフェ(食事の出来るカフェ)・フェルトジヒトでカヌーを停めて、水辺のテラスで休憩したり、12世紀からの小さな教会があるその村を散歩したりすることが出来ます。
ここから更に、レールメンスへ漕ぎ続けると、そこでオーステルヴァイヴェルダーマールはレールメンステルマールになります。このヴィアデの村は景観が保護されており、ここにも11~13世紀に由来する教会があります。中世には、ここはフィフェリンホ地区の重要な司法センターでした。レールメンスの少し北には、かつてフィフェル川が注ぐ入り江の傍に位置していた、ゼーライプがあります。ゼーライプという名前の中の「ripa」はラテン語で岸という意味です。ここにある教会は15世紀前半からのもので、カテドラルの体裁です。
ヴィルドゥムから、ダムステルディープを経て、違った方向、ハレルスヴェールへ行くことも出来ます。そこは昔、重要な場所だったところで、1057年には皇帝ヘンドリック4世から、市・貨幣鋳造・課税の権利を得てさえいます。その後、ヴィネヴェールへ漕ぎ続けてもよし、あるいはヴァイメルスを経てロペルスムへ出ることも出来ます。
ヴィネヴェールは、失われた川フィフェルの東岸にありました。ボルフ、ター・ムーデの傍には、後にデルフに通じる堰も作られました。
ロペルスムには、とても素晴らしい教会があります。細部に意匠を凝らした建築、良く保存されている15世紀からのアーチ形天井の絵、説教壇は17世紀のもので正に美術作品です。1562年と特定されるオルガンは、真の愛好家には本当に嬉しい出会いを意味します。
ロペルスムからそんなに離れていないところに、ヴィアデの村ヴェステルエムデンがあります。そこもかつて、フィフェル川を経て海と繋がった重要な港町でした。ヴェステルエムデンも景観が保護されており、世界中に良く知られています。というのも、ここには有名な画家、ヘンク・ヘルマンテルが古い牧師館ヴェームに住んでいて、彼のアトリエもそこにあるからです。ヴェームで開かれる展覧会は、毎年多くの訪問客を惹き付けています。
船で行くより、サイクリングを楽しみたい、という人にとっても、ダムステルディープの周辺は魅力的です。たいていが静かな道路と、用意されたサイクリング用の小道が、辺りの風景を楽しませ、心をくつろがせてくれます。
分かりやすいサイクリングルートも用意されていますが、自分でルートを選ぶことも出来ます。又専門のガイドと一緒にサイクリングすることも出来ますし(フローニンゲンの
Paulien Excursions )、幸運であれば滞在中にサイクリングツアーが催されていることもあります。先週の新聞にも、そんなツアーのことが載っていました。
「原始の川フィフェルに沿ったサイクリングツアー
自然と風景エームスモントは日曜日にサイクリングツアーを開催します。フィフェルの原始の川を見つけましょう。そのルートは、ヴェステルエムデン、ステードゥム、デ・ペールティル、ヘーメルト、タミンガハウゼン、ロペルスムです。スタートは午後1時半、ゼーライプにある考古学の案内所からです。25kmの距離..... 参加は無料です。」
[ダムステルディープの地図]
*地図中の赤い線がダムステルディープ。
*印は右より:デルフザイル、アピンハダム、ヴィルドゥム
ハレルスヴェール、フローニンゲン市です。
© 2007 Trankiel
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