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デルフザイルのフランス時代

ヤープ・ボテマ氏との出会い

 フローニンゲン北東部古文書係のイェルーン・ヒレンハさんは、デルフザイルの歴史のハイライトは、その港町がナポレオン・ボナパルトのフランスによって支配されていた時代だと話しました。その同じインタビューの中で、ヤープ・ボテマ氏の著書『デルフザイル - フランス時代のスケッチ(1795-1814)』にその当時のことが美しく書かれていることも話しています。

 2004年10月の新聞記事のいくつかは、その著者とその本を絶賛し、著者が行った手間のかかる調査について書いています。約6年間! その長い間、古文書室他、その時代のことを見つけられそうな場所にはどこへでも出かけました。そのあらゆる努力を惜しまぬ調査により、それまで知られていなかった事実が浮かび上がっただけでなく、その頃港町に住んでいた人たちの子孫とも出会うことが出来ました。エティアン・ドゥ・セリエー・ムラー氏(最初の「Maire(メア)」(1811-1813) L.J.S.ドゥ・セリエー氏の子孫)とオト・フォス氏(デルフザイル最初の市長(1814-1831) J.J.フォス氏の子孫)です。彼らはデルフザイル市議会ホールで行われたその本の公式発表に招かれました。著者が、彼等と M.アペル市長にその本の初版を手渡したお祝いの会です。

 新聞には「小説として読める面白い本」「豊富に挿入された図絵」「語りの話」「魅惑的な歴史編纂」などと書かれています。
 ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン(2004年10月26日)には、ヤープ・ボテマ氏自身の言葉が載せられています。「人間として受け取ったささやかな才能で、人はコミュニティのために何かをしようと試みなければならない...」


 それらの言葉に惹かれただけではなく、この退職した歴史の先生にとても興味を抱き、その著書についてもっと知りたいと思いました。それで、他の事々と一緒に私の望みを書いて送りました。「もしかして、いつの日か、お会いすることが出来るでしょうか?」


 手紙を投函してからたった2日のうちに、玄関のベルが鳴ります。ドアを開けると、そこにはヤープ・ボテマ氏の優しい笑顔。明らかに、ぐずぐずするのはお嫌いな方のよう。
 「早速いらしてくださるなんて、本当に有難うございます。どうぞ中にお入りください。」
 リビングルームで椅子といつものコーヒーをすすめます。そう、あのオランダの習慣、「コーヒーは如何ですか?」を忘れません。
 続くものは、ボテマ氏が話す興味深い説明で、私自身はもっぱらお話を謹聴します。




 最初に、「もしデルフザイルのフランス時代についてよく理解したいなら、フローニンゲンの、オランダの歴史を知らなくてはならない。」と話されます。


 私は書棚から2冊の本を取ります。氏の著書と日本語訳のモーリス・ブロール著『オランダ史』。私の発音がよくないためか、その著者の名前を認めることはできません。しかし、間違いなく彼には不慣れな文字で書かれているこの本に目をやり、「これは私にはほとんど読めない。」とジョーク。「しかしあなたが、ナポレオンやそのロシア侵攻などについて、御存知なのはわかりました。」


 どうしてボテマ氏自身、その本を書くことを選んだのか、尋ねます。
 「特別な理由はありません。」と答え、自身の著書を手に取りそれを開きます。


 「ほら、この本はデルフザイルの新教教会の墓地にある墓碑の写真で始まります。」と氏の深みのある快活な声が響きます。
 「1799年4月4日にデルフザイルで生まれ1846年7月10日にそこで亡くなった、ヘルハードゥス・H・ペパーボームの墓碑。この本でこの男の子供時代を描きたいと思いました。いわゆるフランス時代の間、彼の幼年期を。当時と知り合うこと。現在-そこにまだ立っているような墓石-からその時代へとこの本を作った、と言えます。」

この中の一つの墓碑から、物語が始まります。


 「ここ裏表紙のポケットに入っている、この付録の地図がわかりますか?」


 ボテマ氏はそれを開き、九つの紫色の箇所が当時そこにあった宿屋であることを私に語りながら、指で地図をなぞります。


 ラントストラートの古い写真が載っている、他のページを開きます。


「ここ」と氏は言います。
「ケルクパトに近い84番地に、ディーヒェ・トビアス・ヴェデ(金糸職人ルーフ・ファン・ストリューンの未亡人)が住んでいました。彼女の息子トビアス・ルールフス・ファン・ストリューン(1795-1830)は、1814年5月23日の『フランス人の出国』を描きました。素敵でしょう?」


本当に素敵な絵です!

 私はほんとうにそうだと同意し、続けて、この本を作るのにかかった時間について尋ねます。ずいぶん長い時間だったに違いありません...
 氏は微笑み、「ええ、特に、19世紀の初めにどの家に誰が住んでいたかを見つけ出そうというアイデアを得た時に。地獄のような作業でした。これだけでも1年かかりました!」




 「デルフザイルの鉛筆画は、フランス人画家が描いた1812年のものです。そしてこのフランスのピストル、これは「クライネ・カゼルネ(小さなフランス軍兵舎)」の屋根裏で板の後ろにあったのが見つけられました。今はある人の所有なのですが、彼の名前を出さないという条件で、ここに写真を使う許可をもらいました。
 それから、ここにかつての水門の絵があります。要塞の壁-堤防のように見えます-の上に植えられた木立が美しい。「トゥルフブルフ(ピートの橋)」を一人の女性が歩いています。」




 ボテマ氏はデルフザイルについて、その名前のいわれを話します。その話し方や説明の仕方が未だに教師のようであることに気付きます。
 ずっと話しながら「クライネ・カゼルネ」の2枚の写真がある46ページに来ます。最初のものは1965年の取り壊し以前のもの。その下にある2番目のものは、その「クライネ・カゼルネ」の廃材が、ブールタンゲの要塞(フローニンゲン州南東にある観光スポット)の中の住居建設に使われたことを示しています。


 実に残念と思い、デルフザイルにフランス時代から残っているものがあるのかどうか、ボテマ氏に尋ねます。
 「何もありません!」


 私は、先に見せてもらった付録の地図はウォーキングツアー用のものだけれど、その時代の遺物は何も残っていないということを理解します。本当にとても残念!


フランス時代のデルフザイルの要塞

 この地図で見られるように、デルフザイルは当時は要塞でした。

 水に囲まれ、その背後の五つのバスティオン(稜堡)で守られていました。ダムスターバスティオン、コマンダースバスティオン、アウトヴィアダーバスティオン、ホルヴィアダーバスティオン、スヒパースバスティオンの5つです。

 四つの門から、要塞の中に入ることが出来ました。ファームスマーポート、ラントポート、港へ通じるフローテ・ハーフェンポート(大きな港の門)とクライネ・ハーフェンポート(小さな港の門)です。小さな港の門以外には門番がいて、要塞の北の部分には兵舎と錬兵場「デ・フェネ」がありました。

 戦略的に簡単に攻め落とせる場所ではありませんでした。1813年から1814年にかけての厳しい冬の間の包囲攻撃が、とても苦しく辛いものであったことが想像出来ます。




 ボテマ氏はもっと楽しいことに話題を変えます。一人の女性の絵。
 「この絵は」と説明を始めます。「デン・ハーグのある店のショーウインドウの前に立った私の友人が見つけました。この絵を見た友人は、女性が頭にかぶっているものや服装がフローニンゲン特有のものだったので、その店に入り購入しました。買ったばかりのその絵の裏には、その女性の名前が書かれていました。その名前は、トレインヒャ・フルーネボーム。ヤン・ヤンス・フォス・デルフザイル市長(1814~1831)の3番目の妻でした。今この絵は、ニウェ・ペケラの博物館に所蔵されています。」




 「ここに、フランス時代のデルフザイル市長(1811年8月1日~1814年1月28日)ルカス・ヨハネス・スパンダ・ドゥ・セリエー氏とその妻、娘と娘婿の肖像画があります。私は彼の肖像画を持っていなかったのですが、彼の娘の姓を知っていたので(その娘婿のおかげです)電話帳を使ってその家族を見つけようと試みました。こうして、オランダ西部のその家族の居場所を突き止めて訪問し、これらの絵を得ました。全く探偵の仕事でした!」




 「ここにあるこれ、ナポレオンの姿が描かれているパイプがありますね。これはフローニンゲンのタバコ博物館で展示されています。そして、かぎたばこ入れに描かれたもう一つの彼の像。フーム...腰をかけている元気のないナポレオンの絵。彼はきっと病気だったに違いないと思います。」


 「ナポレオン自身は、デルフザイルあるいはフローニンゲンにやって来たのですか?」とボテマ氏の熱のこもった話を中断して尋ねます。


 「いいえ、来ていません。ナポレオンを迎える用意はしたのだけれど、デルフザイルでどこに彼に泊まってもらうかが大問題でした。彼に提供するための、マルメゾンやフォンテーヌブローはありませんでした! それで、彼が来たのはズヴォレまでで、ここには来ませんでした。」


 「あなたは彼の奥さん、ジョセフィーヌを知っていますね。さて、ここにローデヴァイク・ナポレオン=ルイ・ナポレオン(皇帝の弟で彼自身オランダ国王)と、その妻オルタンス・ダ・ボハルネの肖像が描かれた、かぎたばこ入れがあります。オルタンスは、ジョセフィーヌと彼女の前夫との間の娘です。」




 「ここに、1811年の徴兵の文書があります。」


 「オランダ人がフランス軍に徴兵されたことを意味しているのですか?」


 彼はそうだと言い、それには例外があったことを付け加えます。既婚者、未亡人の一人息子、少なくとも3人以上の孤児の最年長者、などのような。


 同じ話題、軍隊、に留まり、彼は続けてステティン(ポーランドの町)からデルフザイルの両親宛に書かれた、フランス軍のオランダ人兵士による1811年12月23日付けの手紙を示します。
 「とても珍しいものです。」とボトマ氏は言います。「当時手紙を書くことが出来た人は、そんなに多くはいなかったからです。」




 疲れることなく、ボテマ氏は次の絵に移ります。


 「これらは、近くのヘーフスヴェールで、1811年5月6日から7日にかけての未明に起こった殺人事件で逮捕されたフランス人達の絵です。裁判所の調書の人相書きと一緒に載せられるよう、フローニンゲンの画家アネット・ズ-ルフェーンにその人相書きから描いてもらいました。かなり高くつきました!」




 ボテマ氏が説明する最後の写真は、ピエール・モウフロワ(当時のデルフザイルのフランス人司令官)によって書かれた手紙で、その中でモウフロアは「パペハーイスヒーテン(木製のオウム撃ち。その頃のフローニンゲンでの伝統的なゲーム)」に許可を与えています。それと一緒に載っている写真は、そのゲームの様子が彫られた銀製の優勝杯です。




 フランスが占領していた間のオランダの名称を話してくださり、終わりがやってきます。
   1795~1806 バタヴィア共和国
   1806~1810 オランダ王国
   1810~1813 フランス帝国の県(併合)
 そのような短い期間に、自分達の国の名前を3つも持ったということを、人々はどう感じたのでしょうか...




 間違いなく、ヤープ・ボトマ氏はもっとたくさん素敵なお話をしてくださることが出来たと思います。とても博識で、それを楽しい語り口で話してくださいます。しかし、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
 もう5時です。ここオランダでは6時に夕食を摂る習慣で、それ故終わりの時間。氏は帰宅の、そして私も夕食の用意の時間。
 心から感謝して、玄関まで見送ります。
 「庭にレンギョウがとてもきれいに咲いている。」と誉めて下さり、氏は自身の車に乗ります。ビ-プ、ビ-プと警笛を鳴らし、去りました。 
 本当に充実した楽しい午後を過ごすことが出来ました。思いがけない素晴らしい日!












協力してくださった方々:


*歴史家・著述家のヤープ・ボテマ氏


*出版社「プロフィール・ベードゥム」:
  『デルフザイル フランス時代のスケッ(1795-1814)』(ヤープ・ボテマ著)の表紙


*デルフザイル自治体の古文書室 :
  (1)トビアス・ルールフス・ファン・ストリューン作「フランス人の出国」の絵
  (2)フランス時代のデルフザイルの地図   




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