Trankiel  Groningen - Japan
Welkom  Terug in de tijd Japanners in Nederland Groningen en Japan Cultuurverschil Japan Groningen  
 ようこそ むかし へ オランダ の 日本人 フローニンゲン と 日本 文化のちがい 日本 フローニンゲン  
 
フローニンゲンの地域古文書係
     イェルーン・ヒレンハさん
 
 あなたが書き物をしていて、町の歴史のこともその中に入れたいと思うなら、その分野の専門家の助けが必要になることでしょう。
 インターネットに載せる物語も同じで、デルフザイルでの「メグレの誕生」についての物語を書いている時、地域の古文書係、イェルーン・ヒレンハさんと知り合いました。
 さ迷い人を助けることに喜びを感じる親切な人。文書室に通ううち、彼の仕事にますます興味を持ち、インタビューしたいと思うようになりました。
 
 4月12日の朝、私はアピンハダムの市庁舎にイェルーン・ヒレンハさんを訪ね、いつものように温かく歓迎されました。もちろん最初に、「コーヒーは如何?」と尋ねられ ― 私がいいなと思うオランダの習慣の一つ ― それから楽しい会話が始まりました。
 
 
 以下はそのインタビューです。
 
 
 
あなたはデルフザイル自治体や他のいくつかの自治体の古文書係です。あなたの仕事の概要を話してください。
主な仕事として、古文書の目録を作っています。例えばここに、このような目録があります。これはミデルストゥム自治体の古文書のものです。自治体にはたくさんの古文書があります。私の主な仕事は、古文書への入口を作り、情報を求める人たちに探しているものを見つけやすくすることです。
 
そのような目録の本を見るのは、今が初めてです。すべての古文書保管所にそのような目録があるのですか?
ええ。デルフザイルのものもあります。近くのビールム― 1990年までは独立した自治体、今はデルフザイルに属している ― や、アピンハダム等のものもです。ここ、アピンハダムの市庁舎には二つだけ、ミデルストゥムとアピンハダムのもの、があります。
 
それは古文書室だけにあるのですか。例えば図書館には置いていないのですか。
はい、図書館にも置いています。それから、同じ目録をインターネット上でも見つけることができます。フローニンゲル・アーヒーフネット(フローニンゲンの古文書室ネット)のサイトです。ちょっと見せてあげましょう。ほら、これがフローニンゲン州。ここにデルフザイル。これがビールム。すべての章がそこにあります。クリックすると、個々の古文書室にあるすべてに行くことができます。この目録も私が作りました。
 
フローニンゲル・アーヒーフネット : 1679にモウフロワの手紙(1814年)
 
そのようなサイトもあなたが作るのですか?
それはプロヴィンス(州)のサイトです。しかし、州内の自治体すべてがこの一部になっていて、それぞれが入手できる情報をサイトに提供しています。
 
それが主な仕事ですか。
そうです。しかし、文書目録を作成するだけでなく、文書を人々に見てもらいたいと思っています。ちょっと保管室を案内しましょう。
 
 
(集められた貴重な史料が保管されている部屋へ案内されます。それがどのように整理されているのか、見せてもらいます。目録やインターネット上に書かれている数字が、箱に書かれた数字と一致しています。箱には年代も記録されています。)
 
 
ここにあるものは、私が働いているいくつかの古文書室の中で最古のものです。アピンハダムはとても古い町です。その歴史は、チャールズ大帝の時代まで遡ります。「7つのフリージアンの海の国々 ― 実際はもっと多くの国があったのですが、7という数字に与えられた神話での意味のために、7が使われています ― 」の存在まで。フィフェリンホの存在まで... ここにあるのは中世からのものです。これは、いわゆる「ビュルハーブック」です。説明しましょう。あなたが当時アピンハダムにやって来て、お金も持ち、ここで生計を立てようとしている善良な人物であることが証明出来れば、この名簿「ビュルハーブック(市民名簿)」に登録されました。それは無料ではなく、そこに記載してもらうためには支払いが必要でした。本当にとても古いもので、1619年に始まり、フランス時代、1800年頃まで続きます。
 
アピンハダムの古い景観を描いた絵。クラエス・ヘンデリクス作
 
(部屋に戻り、他にどのような仕事をしているのか話します。例えば、古文書室に関心を持ってもらうため、新聞に記事を書いていることなど。)
 
まずこれらの本とインターネットに目録を作ること。次に、新聞に古文書室について書くこと。
古文書をもっと使ってもらうため、と言えます。それから、皆さんが資料を見つけるのを手伝うことです。電話やメールなどで質問を受け、探している史料を見つける手伝いをします。ここに来て関係の文書を調べるのですが、時々は私が可能な範囲で答えを探します。人々へのサービスと考えています。
 
あなたはアピンハダムと同様、デルフザイル、ロペスムでも古文書係です。それぞれの自治体はフルタイムの文書係を必要としていないのでしょうか?
実は私は四つの自治体の古文書係です。であることを言わなければなりません。エームスモント自治体(アウトハウゼンに市庁舎があります)もです。これらはかなり小さな自治体で、そんなに多くの人は住んでいません。ですから、フルタイムの係は必要としていません。又経費もかかるので、4つの自治体で1人の古文書係ということになっています。
 
それぞれの自治体に週に1日行くのですか?
デルフザイルが一番大きな自治体なので週に2日、他の三つの自治体には週1日です。
 
文書室にやってくる人数は、平均でどのくらいですか。週に、月に、あるいは...
年間の数字を言うことが出来ます。昨年2005年には、139人の訪問者がいました。
 
四つすべての総数ですか?
はい。ですからそんなに多くはありません。この他に、電話やメールなどによる120の質問にも答えました。
 
一般にどのような人達なのでしょうか? 学生ですか?
学生もですが、様々な人たちです。本を執筆中の人もいます。例えば、ロペスムに住みその議会のために多くの仕事をした建築家について、本を書いている人たちがいました。古文書室には建築家としての彼に関する資料もたくさんあります。
自分たちが通った学校の歴史を調べる人たちもいます。家の歴史を調べる人もたくさんいます。

 
家系を調べるのですか?
そうです。出生証明書や結婚証明書等を調べています。そのようなものも、自治体の古文書室で見つけることが出来ます。
 
新聞に時々記事を書いているとおっしゃいました。講義もされるのですか?
地域の新聞。例えばここエームス地域の「デ・エームスボーデ」や、フローニンゲンの北部の「デ・オメランダー・クーラント」です。
古文書室について知らせるために、他のこともしています。1年に1度、あるいは2年に1度、歴史の日を催しています。最近のそのようなイベントは、昨月、ロペ
スムで開催されました。ブースで歴史に関わる情報が得られる、ある種の「市」です。専門書店やフロ―ニンゲル・アーヒーフェンも参加します。このようなイベントへの関心はいつも大きなものです。
 
 
ロペスムでだけですか?
時々は、ここアピンハダムでも...
 
デルフザイルでは?
デルフザイルでは、まだ一度もありません。相応しい場所がないからです。ロぺスムでは、スペースのある古い大きな教会で企画します。
アピンハダムでは2度、これも又素晴らしい古いニコライ教会で行ないました。

 
デルフザイルにはそのような古い教会がない、あるいは...

古い教会はあるのですが、小さ過ぎます。どうして古い教会の中で行なうのか不思議に思うかもしれませんが、そのような場所は歴史の日によく合っているからです。
 
定期的な講義等は?
時々行っています。デルフザイルとアピンハダムの中間にあるフィフェル・コレージャでも講義をしました。
時々、コースも企画します。家系調査のコース。デルフザイル、アウトハウゼンやここアピンハダムでも同じように行ないました。家の歴史調べは、とても人気があります。多くの人が調べています。その中には初心者もいるので、そのような人たちのため、調査の始め方が学べるコースです。
 
何かを学ぶと言えば、古文書係になるために特別な勉強をされたのですか?
デン・ハーグの古文書の学校で学びました。
 
そのような学校はオランダでそこだけなのでしょうか?
はい。私が1996年に通ったデン・ハーグの学校は、もう存在していません。今は、アムステルダムに行かなければなりません。
デン・ハーグで1年間学びました。週に1日だけ学校に通い、週の残りはフローニンゲンの「国立文書館」で実習生として働きました。

 
デン・ハーグの学校に行くために基礎教育が必要でしたか? 大学での歴史の勉強とか?
そのような必要はなく、歴史の学科はデン・ハーグの学校で学びました。とてもおおまかなもので、オランダの歴史の凡その知識。そして私は、アピンハダム、デルフザイル、ロッペルスム、エームスモントの古文書係なので、この地方の歴史について学びました。私達が学ばなくてはならなかったその他の学科は、古いハンドライティングでした。先に見てもらった古い文書に書かれていたようなもの。慣れていないと読めません。それは今日のハンドライティングとはとても異なっています。
 
あなた自身、フローニンゲンの出身、フルナハーですか? あなたの仕事にとって、ここの出身であることは有利なことでしょうか?
私はフローニンゲン市で生まれました。どこの出身であっても、ここの古文書係になれます。一方、働いている地域の歴史に興味があれば文書係として大きな利点です。出身地の歴史に興味を持つのは普通のことなので、ここの出身であることは有利だと思います。
 
デン・ハーグの学校に行かれる前はフローニンゲン市で教育を受けられたのですか?
私の人生は、「スタット(市)」― 私達はフローニンゲン市のことをそう呼んでいます ― と強く関係しています。そこで生まれ、育ち、ハイスクールに行きました。そして、今もそこに住んでいます。私はすべてのことをフローニンゲンで経験したと言えます。
 
では、あなたは「フルナハー」のメンタリティーを知っている...
はい、知っています。
 
それは強みです、ね?
確かに、そうです。
 
 
デルフザイルは ― アピンハダムもですが ― 興味深い歴史を持っています。その歴史の中のハイライトを挙げていただけますか?
難しい質問ですが、私はデルフザイルの歴史の中の真のハイライトは、フランス時代であると思ってます。それは1795年から1814年まで続きました。その時代、オランダはフランスによって占領されていました。多分、あなたもご存知でしょう。
 
はい、知っています。
それでは、ナポレオンが1812年にロシアに遠征し敗れたことも御存知ですね。彼が巨大な軍隊と共にそこに行き、とても小さな軍隊と戻ったかを。この敗退に、他の敗北が続きました。1813年10月のライプチヒの戦いです。彼はそれから、パリへ戻りました。
それは又、フランスによるオランダ占領が終わったことを意味したのですが、デルフザイルではフランス軍が留まりました。その結果、1813年11月から、フランス人達が遂に諦めてパリに戻った1814年の5月まで、町は連合軍により約半年間包囲されました。

 
フランスの司令官、ピエール・モウフロワ大佐は、その時水を武器として使い脅した、と聞きました。
彼等はもちろん堰も支配していました。1813年から1814年にかけての冬がとても寒く、すべての水が凍っていたことを知っていなければなりません。春に雪解けが始まっても、フランス人がその余分な水を海へ排水するために堰を開けることを拒否したので、土地は水浸しになりました。情勢を有利にするためのフランスのとった方法でした。
 
デルフザイルが重要な地であったは間違いありません...
デルフザイルはとても戦略的な場所でした。エームス川やダムステディープの船舶の運行を支配し、治水-堰-を支配出来ました。そして、町には厚い壁がありました。
 
要塞...
そう、要塞で、攻略するのがとても難しいところでした。フランスが遂に降伏するまで、約半年かかりました。
 
デルフザイルの人達はそのようなことを知っているのでしょうか?


それを知ることは出来ます。ヤープ・ボテマ氏が著した「デルフザイル ― フランス時代のスケッチ 1795-1814 」という本があります。2004年10月発行で、たくさんの史料が含まれ、美しく書かれています。
 
私はデルフザイルに住んでいる人達がそのような史実を知っているかどうか、を尋ねました。というのも、最近、国の政府がここに住んでいる外国人の義務についていろいろ話しているからです。つまり、オランダの歴史を知ること。これを聞いた時、オランダ市民は皆歴史をよく知っているのだろうかと疑問に思いました。
(イェルーン・ヒレンハさんは笑い出し、私も同様に。会話は少々いたずらっぽい雰囲気になります。)
 
歴史についてあまり知らない人が、たくさんいると思います。
 
オランダの人々も、ですね?
はい、多くのオランダ人は国の歴史についてよく知りません。オラニエ公ウィレムのことも知らない人たちがいます。
 
 
(自身の歴史を知ること、この話題で、私達はもう少し戯れ興じました。それはインタビューの合間に自然に生じた小休憩のようでした。)
 
 
デルフザイルは、例えばアピンハダムもですが、いわゆる「stadsrecht(市権)」を持っています。この権利を持っている町は、彼等自身を「市」と呼ぶことができます。
この権利、そのシステム、そのような「権利」を得るためにはどのような条件を満たさなければならなかったのか、少し説明して下さいますか?

市権は、町が大きく強くなってきた中世に起源しています。より勢力を持ってきた、と言うことができます。歴史のその時代には、誰かがそのような町を領有していました。それは伯爵、公、王たちでした。そして、領有者たちが、町に市権を与えることが出来ました。この地方ではしかし、少々異なっていました。ここには伯爵も、公も、王もいませんでした... 私達はそれを「フリースラントの自由」と呼んでいます。アピンハダムはその時、当時デンマークを含む海岸全体に沿って広がっていたフリースラント ― 今日では単にオランダの州の一つですが ― の中に位置していました。それは巨大でした。しかし、フリースラントの全領域を支配する一人の統治者はいませんでした。中央政府は存在していませんでした。それは、独立し彼等自身の政府を持ったより小さな部分に分かれていました。
 
1300年頃の自由フリースラントの国々
(2003年7月5日付『ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン』より)
Copyright:Infographic by Janneke de Jonge
 
しかし、通商、戦争、市権についてなど共通の利害を話すため、彼等は時々集まりました。アウリヒ(今はドイツの町)での会合が、1327年にアピンハダムに「市権」をもたらしました。その証書「デ・ビュールブリーフ」がそこに掛かっているでしょう。そのような権利が何を意味していたのか。アピンハダムはそれ自身の司法とそれ自身の政府を持っていました。そこにはフリースラントのリーダー達の連合によって承認された古い規則が存在していました。
デルフザイルはそれとは全く違っています。彼等は19世紀に市権を得ました。それは本来の市権とはみなされません。真の市権というのは中世からのものだからです。
19世紀、国王ウィレムⅠ世の時代には多くの自治体があり、それらのいくつかは、国王から市権を得ました。フローニンゲン州では、デルフザイル、アピンハダムとヴィンスホーテンがそれを得ました。それは、自身の議会のメンバーを選ぶ権利を持っていたことを意味していました。その他の町では、議会のメンバーは州政府によって選ばれました。
実際のところ、そのことが唯一の利点で、他には何もありませんでした。
それは1850年まで続きました。デルフザイルが1819年に市権を得てからそれが廃止されるまで、そんなに長くはなく30年少々でした。1851年にいわゆる「自治体法」が導入され、これからはすべての自治体は同等の権利を有する、ということを意味していました。
 
「デ・ビュールブリーフ」
 
フローニンゲン市はどうだったのでしょう?

その市権はとてもとても古いものです!おそらく12世紀からのものです。その市権はドイツ皇帝自身によって認められたものである、と市は言っています。フローニンゲンの盾形紋章の中に、双頭の鷲 - ドイツ皇帝のシンボル- が見られます。
 
日本ととても違っていると思います。日本の市はそのような中世からのものではないと思います。おそらく、西洋から学んで「市」という名前を導入したのだと思います...
(私達は合間に少し日本の歴史について、こことの違いについて、日本社会への西洋の影響などについて話します。とても面白くて楽しいもの。しかし、時計が最後のいくつかの質問の時間であることを告げます。)
 
フローニンゲンの歴史は、オランダ西部の歴史より古い - もっと昔にさかのぼる - と聞いたことが、本当ですか?それが証明できるような事実はありますか?
より古いのかどうかは、知りません。しかし、とてもとても古い歴史であることは、確かに言えます。「ヴィーデン」について聞いたことがあるでしょう?
 
はい、かなりたくさんのヴィーデンを見ました。
これらのヴィーデンのいくつかは、はるかBC600年まで遡ることを知っていますね...
 
これは、オランダ西部で見つけられるものよりも古いのでしょうか?
それは「ヴィーデン」が見出だせる、かつてのフリージアンの地域全体について言うことが出来、デンマークでも見つけることが出来ます。そしてそれらは、確かにオランダの中で、おそらくヨーロッパの中でさえ、最も古い文化的風景です。
 
ビースムのヴィーデ/BC400頃からのもの
馬がたくさんいる田舎の風景
 
BC600年には、オランダ西部でも人々が住んでいたかもしれないと思います。しかしそのことを100%確信しているわけではありません。もっとはっきり答えるためには、もう少し調べたいと思います。というのも、この国の西部はとても低く始終氾濫していたからです。水浸しでした!
しかし人々は川岸に住んだものでした。そこは他より高くなっていました。
フローニンゲンでもそれは起こりました。「フィフェル」や「フンゼ」のような、いくつかの大きな川がありました。それらの岸も周りの土地よりも高くなっていたので、最初の人々はそれらの岸に住みました。
西部でも同じです。人々がライン川やその他の大きな川の川岸に定住したことが想像できるでしょう。
しかし「ヴィー
デン」は、この国の北部でのみ見られます。従ってここでも見られるのですが、これらの人造の丘は風景の文化的な相です。
この国は全体として、人々が自分達自身で風景を創ったことで知られています。
ここ北部で、彼等は、そのようなことを行なった最初の人達でした。「ヴィー
デン」の創造は、その最古の形態です。西部にある他のなによりも古いものだと思います。
 
アウトヴィーデ(ヴィーデンの一つ)
の古い教会...
... その周辺は今なお水が
 
古文書室でのこれまでの最大の発見は何でしょう?その時のお気持ちは?
これも又難しい質問です。
私は仕事の中で、古文書を保全しそれらの散逸を防ごうとしています。今にも失くなりかけている何かを見つけたら、それを救うため最善を尽くします。ここにあるこれらの古い地図のように。私はそれらが屋根裏の床の上にあったのを見つけました。そんなに古いものではありませんが、多くの情報を含んでいます。
最大の発見は、もし挙げるとすれば、スパイクでのそれです。
私は、かつての自治体ビールムの古文書の一部を見つけるため、そこに行きました。古い学校の建物、図書館の中です。屋根裏で私達は特に、そこにあるはず-と、私達は聞いていました-の、自治体の公共事業に関する文書を探していました。そして、その時、その時に、その本がそこに横たわっていたのです。小さな記録で、1808年から1810年までのもの。それは独立した自治体として、たった3年間-1808年から1811年まで-存在していた、ホルヴィアダ自治体のものでした。
私達は、その自治体の記録文書は何も持っていませんでした。全く何も、です! そして、今突然、屋根裏の床の上に、その本がありました。いわゆる「ブリーフェンブック」。それは、それらの年に、ホルヴィー
デ自治体の首長によって送られた手紙を含んでいます。
よくない環境の屋根裏で、冬は寒くて夏は暑すぎる、そんなに乾燥していない場所で、見つけられました。もし、私達がそれをそこで見つけなかったら、次の世代の人々には残らなかったことでしょう。
ですから、私がそれを消失から救うことが出来た事を、そしてそれが今デルフザイル自治体の古文書室にあることを、とても嬉しく思っています。

 
それはいつのことだったのでしょうか?
数年前。2004年です。
 
その時のあなたのお気持ちは?
もちろん、とても興奮しました。屋根裏にあることを誰も知らなかった、とても古いものを見つけたのですから...
 
最後に、何か、日本の読者の皆さんに伝えたいことがありますでしょうか?
一度是非フローニンゲン州に来てください。あなた方御自身で、どんなに素敵か、実際に見てください。このプロヴィンスの歴史は何と豊かで興味深いことか。日本の多くの皆さんがヨーロッパやオランダを旅行していますが、オランダでよく行く所はいつも、アムステルダム、ザーンセ・スハンス、キューケンホフ... どうして、北へ、フローニンゲンへは来ないのでしょうか。
フローニンゲン市、デルフザイル、アピンハダム、ビールム、ステードゥム、マルスム、アウトヴィー
ダ、ホトリンゼ... それらの魅惑的な小さな村々。そのたいていが、中世に遡る教会を持つ古い「ヴィーデン」の村々です。オランダで、おそらくヨーロッパでも、最も古い文化的風景。
私はこう言いたいと思います。「Tot ziens(さよなら、又会いましょう)」

 
 
 
 
協力してくださった方々:
 
*「北東フローニンゲン・地域古文書室」の文書係、イェルーン・ヒレンハさん
 
*アピンハダム自治体古文書室
(1)クラエス・ヘンデリクス作の古いアピンハダムの絵                   (2)「デ・ビュールブリーフ」
 
*デルフザイル自治体古文書室:1749年のデルフザイル要塞の図
 
*フローニンゲル・アーヒーフネット:目録の一部(デルフザイル自治体)
 
*2005年3月9日の新聞「デ・エームスボーデ」
  イェルーン・ヒレンハさんが書いた記事の一部
 
*出版社「プロフィール・ベードゥム」
  ヤープ・ボトマ著 『デルフザイル フランス時代のスケッチ(1795-1814)』       
  ISBN 90 5294 315 の表紙
 
*2003年7月5日の新聞「ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン」              ヤネケ・デ・ヨンゲによるインフォグラフィック「1300年頃の自由フリースラントの国々」
 
 
COPYRIGHT :
 
当ホームページに掲載されているあらゆる内容の無許可・転用を禁止します。これは「トランキール」だけではなく、上記の方々に関しても同様です。

 
 
 



© 2006 Trankiel