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   タームンタージール

お聞き ぼうや 外はあらし
ボルクムの島かげで 船が沈むよ
おまえが眠ると ぼうや 西風が歌う
船乗りの妻はひとりで子を育てると

タームンタージール
      きれいなきれいな港
汐風とエビとタールの匂いあふれて
海で死んだ男達も眠る
母は今ひとりあらしに歌う


エーデ・スタール への トリビュート

大町ますみ、彼女の「タームンタージール」で

フローニンゲンの伝説 Ede Staal を敬する

 
 丘の上にある、とてもよく知られた神奈川県立音楽堂―そこから、横浜港の素晴らしい眺めが得られます―は、この土曜の午後も多くの入場者を迎えます。千人の観客はキャプテン大町正人の指導の下に海の歌やシーシャンティを歌う「帆船日本丸(を愛する)男声合唱団」の演奏会を聞きにやって来ています。そして、そのハイレベルな演奏が、2003年にデルフザイルで開催された来訪者約百万人の大帆船イベント「デルフセイル」での彼等の公演を導きました。デルフザイルでの滞在は、その他にもラジオ・ノードのためのライブ出演、TVノードのためのライブ出演に加えて、多くの視聴者を得たTVノード・スペシャル番組「合唱団、フローニンゲンの水路を船で行き、歌う」を彼等にもたらしました。
 神奈川県立音楽堂でのこの午後のプログラムの中には、高く評価されているソプラノ歌手、合唱団のボイストレーナーでもある大町ますみの出演が告げられています。 
 
 彼女は、東京芸術大学を卒業後オラトリオのソリストとしてデビューし、たくさんのオペラのアリアや他のクラシックのコンサートがそれに続きます。彼女は多くのステージで賞賛されるだけでなく、NHKテレビにもレギュラー出演します。歌の他にも、その磨かれた声を使って、三百人劇場で、井原西鶴―おそらく江戸時代町人文学最高峰の作家―の作品の朗読も行ないます。クラシックのレパートリー以外のジャンルにも、彼女は関心を持っています。例えば、今日彼女の伴奏をするギタリスト大友正男の、ボサノバがテーマの10月のプログラムにもゲスト出演することになっています。
 この50代の演奏家も、音楽の分野で既に充分、当然の名声を獲得しています。彼は17歳で、本格的にクラシックギターを学びました。20代で単身ブラジルへ渡り、サンパウロ、バイーヤ、リオデジャネイロ等の街で3年間滞在し、ブラジル・サウンド、特にボサノバに専心しました。彼の非凡な才能はトップ・アーティスト達に認められ絶賛を博しました。ラテンアメリカの国で他に及ぶ者のないギターの名手、ボサノバのパイオニアと称されているバーデン・パウエルを彼の師としました。
 
 二人の名前が、合唱団の持つ質と相俟って、音楽堂での素敵な午後を疑いなく保証しています。しかし、ホールの千人の聴衆は、今日2006年7月15日にこの有名なコンサートホールにやって来たことが、どんなに記憶すべきことになるか、プログラムの初めには思いもよりません。
 
 合唱団による、「Sailing Sailing」「Blow the Man Down」や「Rolling Home」等のよく知られた素晴らしい10曲の後、マイクは大町ますみに渡されます。ステージの上には、大友正男がその隣にいます。最初の曲「The Water is Wide」で大町ますみは既に聴衆を魅了します。全くのアーティストがここにいます。
 
 千人の拍手を浴びた後、彼女は聴衆に向かって話しかけます。デルフセイル開催中のデルフザイルにおける合唱団の大成功だった公演を思い起こし、デルフザイル近くのタームンタージールについて語ります。この港のことを作詞し歌った、シンガーソングライター、エーデ・スタールについて。そして...次の曲として彼女が心を込めて披露する、わたりひろゆきによるその日本語の訳詞について。彼女の見事な張りのある声と、それにとても良く合った大友正男の伴奏が、これまで日本で知られていない歌を公開します。控え目にそして力強く、エーデ・スタールを頷かせる方法で。そして、記念すべきワールドプレミアを目撃するこの聴衆の中で、満足したのはエーデだけではないでしょう。
 

 
 「タームンタージール」は、エーデ・スタールが不運に襲われ、深刻な病、肺癌に見舞われる前に彼が作って歌った歌の一つです。その病は「カルト・ステータス」をもたらすと共に、彼のユニークな生涯を終わらせました。死後その崇敬はより大きなものとなりました。
 
 「デルフザイル - フローニンゲンのシャンソン歌手、エーデ・スタールは、昨日45歳で、彼の住居のあるデルフザイルで、亡くなりました ..... 」
 
 ここの人々の心を深く動かしたのは、1986年7月23日付のこのニュースです。情動の波がフローニンゲン州にあふれます。人々は理解が出来ません。「彼等のエーデ」はもういない?彼の死を報告する他に、この日の「ニュースブラット・ファン・ヘット・ノーデン」は又、追悼を載せます。その中でヴィンスホーテンにある音楽専門店ヘクマンのJ.W.H.ヘクマン氏は、エーデ作品の販売について話します。「こんなことは今まで経験した事がありません。これに近づくことが出来るようなレコードはありません。その売れ行きは、ローリング・ストーンズやマイケル・ジャクソンのレコードとさえ釣合いません。このレコード -『アズ・ファーイア・ヴォーデン(4語[Ik hou van jou.=I love you.]が...の時)』-の販売は、2倍から3倍多いものです。」
 
 8年後の1994年、フローニンゲンのシンガーソングライターの人気は、更に上昇しています。彼の未亡人、フィーケはインタビューの中でそれについて語ります。「エーデの成功はネヴァー・エンディング・ストーリー のように思われます。」
 
 そして彼の死から14年後、9月13日のエームスボーデに、ヘルマン・サントマンによって書かれた1ページ大の記事は、次のように始まります。「なにより、彼がいなくて寂しい。その歌手のことを、ただ彼の音楽と数枚の写真でしか知らない若い人達も、です。実際、奇妙に思えます。人々は皆、彼のメランコリーな歌詞に感動します。フローニンゲンの土地と頓着しない生活への、漠然とした憧憬を歌った詞に。彼がもう、そのような美しいものを作れないことは、とても残念です。何故なら、エーデ・スタールは1986年に亡くなりましたから。早過ぎました。」
 


エーデ・スタールの墓碑は彼がどのような人物であったかを示しています。

それはシンプルで、かつ、その簡素さで美しいものです。
 
「なにより、彼がいなくて寂しい」
と、ヘルマン・サントマンの記事にあります。そして、ここの人々は20年後の今もなお、そのように感じています。それは、亡くなってはいるけれど、今なお心の中に存在する、そのような人への思いです。彼は去ったけれど、いなくなってはいません。 彼は、ある意味で生き続けています。多くの人々の気持ちや心の中で。彼自身のフローニンゲンの地だけでなく、その外でも。遠く離れた外でも! オランダ語とフローニンゲン語の歌詞の歌、大好きな50曲のリスト―「ラジオ・TVノードの、ALLE 50 GOUD(すべて50のゴールド)」―に、もう何年も、彼の「Het het nog nooit zo donker west(そんなに暗いことは一度もなかった)」が第1位であり、その他の何曲かもこのリストに入っている、そのような人への思いです。
 
<左>年末の RTVノード
     『ALLE 50 GOUD』
 
 フローニンゲン大学、フローニンゲンの言語と文化の事務局のシモン・レーカー博士が1995年1月7日「ニュースブラット・ファン・ヘット・ノーデン」のインタビューの中でその人物について次のように話します。「フローニンゲンの人達に、人気のあるフローニンゲン語の歌について尋ねたなら、ほぼ確実に、エーデ・スタール(1944~1986)の名前を最初に挙げるでしょう。彼の死の8年後でさえ彼に匹敵する者は知られず、プロヴィンスの至る所から又どの世代からもエントリーの第1位に挙げられます... 早くに亡くなったシンガーソングライターの計り知れない人気の継続の背景について答えようとする研究が、今一度待たれています...」
 エーデ・スタール自身は、そのような研究には全く興味がないことでしょう。彼の存在を分析しようとするどのような試みも、知りたいとは思わないでしょう。彼によって書かれ歌われた「Credo-mien bestoan(クレド‐ミーン・ベストーン:信条‐私の存在)」という歌の中で明らかになるように、そんなことは彼らしくありません。風に尋ねますが、風は理解しません。海に尋ねますが、海は自身の歌を歌うばかり。そんなふうに始まるこの歌の中で、エーデは彼自身がどのように人生を見ているかをはっきりと知らせます。
 
 「私は知っている、来るべき時があり
  又行くべき時があることを、
  そしてすべてはその間にあることを、
  そう、それが私の存在。」
 
 <左>
 ヘンク・ファン・ミデラ―著
 エーデ・スタールの伝記


   <右>
    エーデ・スタールの
    『ミーン・トゥンヒェ』
 
 2004年に出版されたヘンク・ファン・ミデラー による伝記の中に、エーデが彼の人生をどのように記述したかについて書かれています。たった二つの文です。エーデの性格と彼がフルナハーであることを考えれば、この文の中の言葉はよく選ばれたものである、と言うことが出来るでしょう。「私は1941年に生まれた。レーンスで育ち、英語の教師になり、フィーケと結婚し、6人の息子を得、よく引越し、少し作曲し、歌詞を書き、そしてそれは過ぎ去った。
 
 それがフローニンゲンの人、それが等身大のエーデです。つまらないことで騒がない、あるがままで飾らない人。家族と一緒に様々な農家に住み、広々としたフローニンゲンの土地を熱愛した人。そこで、そのトランキールな(静かな)風景の中で、彼は書き始めます。最初はまだ、彼がヴォルデンドルプの高校で教えていた言葉、英語で。「I'm in the blues」は1973年に作詞され注目を浴びます。西部(オランダの大都市圏)でも、遥か北からのこのアーティストに関心が持たれます。エーデは行きます。フォノグラム・フィリップのスタジオで歌を録音しますが、すぐに彼が信頼できるフローニンゲンに戻ります。そこでは、くつろぐことができませんでした!
 
 このことは、国の西部で活動してキャリアを積むことを快く思わなかった、このシンガーソングライターを、特徴づけています。エーデがフローニンゲンの言葉で詞を書き始めるのは、それ以降ですが、その成功は、ラジオ・ノードのエングベルト・フルーベンによって「発見」される1982 年まで待たなければなりませんでした。
 
 彼の「Mien Toentje(ミ―ン・トゥンヒェ:私の小さな庭)」は、ラジオ・ノードのガーデン・プログラムのテーマソングとなり、たちまち、ものすごい人気となります。彼は直ちにフローニンゲンのフォーク歌手となり、公演の依頼が殺到します。エーデ自身はそれをそんなに好まず、それらにあまり応じません。
 
 2年後の1984年、彼の歌が4曲入ったレコード「Man,man,man,wat n boudel(おや、まあ、まあ、なんてつまらないこと)」が発売されます。この年の12月には彼の最初のLP、彼がフルニングスで作詞した12曲が入った「ミ―ン・トゥンヒェ」。その売上枚数は、全国的なトップの成功に匹敵します。エーデ・スタールはフローニンゲンの人々の心を永遠に魅了しました。彼が人々がすぐにそれと分かることを歌うことで。風景やそこに住む人々を完全に感じとる、彼の天賦の才能を使うことで。彼は実にフローニンゲンそのものです!
 最初のLP発売のたった1ヶ月後に、彼は大手術を受けなければならず、何ヶ月も活動できない状態になります。11月、チケットが完売された熱狂的な観客でいっぱいの劇場、デルフザイルの「デ・モーレンベルフ」のステージに、彼は再び立ちます。その年、ラジオ・ノード、日曜朝の番組「スローパースティル」の中で、自身のコラムを持つようになります。その中で彼が語る、彼によって書かれた話は、歌と同様の人気を得ます。ますます彼の運勢は上昇し始めます。エーデはフローニンゲンの多くの人々―若者から老人まであらゆる階層の人々―の間で認められるようになります。しかしそれは長くは続きません。彼が深刻な病であることが知られ、1986年7月22日病のため、デルフザイルのファームスマーヴェヒにある彼の農場で亡くなり、デルフザイルに葬られます。
 10月4日に遺作である彼の2番目のLP、「アズ・ファーイア・ヴォーデン」が発売され、これは「ミーン・トゥンヒェ」と同じように大成功となります。
 
 
 彼の死後20年経っても、その人気は少しも変わりません。いまだに彼のCDは、とかくするうち、カウンターを越えて何十万と売られます。彼自身によって歌われた歌は、なおいつもラジオで聞かれ、彼は「ALLE 50 GOUD」― ラジオ・ノードのリスト ― の中で、今も第1位です。
 
 
 しかし、彼の死から既に20年過ぎ去った間に起こったことは、それだけではありません。TVドキュメントが制作され、全国放送で放映されました。先に述べた伝記が発売されました。大当たりの映画「ポーランド人の結婚」の中で彼の歌が聞かれ、彼は国際的に知られるようになりました。フローニンゲンが舞台になっているこの映画が日本で封切りされた時、彼の有名な歌「ホーヘラーン」は字幕として日本語訳されます。楽譜と歌詞が書かれた「エーデ・スタール"それが私の故郷... "」というタイトルの本が発刊されました。彼の音楽は画家達によってインスピレーションの源として使われ、大きなカンバスが彼の歌のタイトルを題名にします。
 「フェルヒルダースム」のボルフで、何千人もの関心のある人達をあちこちから引きつけた大きな展覧会が行なわれました。フクシャが彼にちなんで名付けられ、ウォーキングルートやサイクリングルートにも彼の名前が付けられています。
 
 2001年にデルフザイルの堤防の上で、フローニンゲンのアーティスト、クリス・フェルベーク作のモニュメントの除幕が行なわれました。高さ10mの円錐柱に錆びないステンレス製のテープが巻かれ、そこには「クレド‐ミーン・ベストーン」の歌詞が書かれています。:
「私は知っている、来るべき時があり 又 行くべき時があることを、そして すべては その間にあることを、そう、それが私の存在。」
 
 そしてつい最近、今年の3月に、チャールス・ファン・デン・ブルックによる「描かれた エーデ・スタール」が出版されました。87ページのぶ厚い「漫画本」で、17のエーデの歌がイメージソースとして使われています。「タームンタージール」もその中に... その同じ月に、30に及ぶ合唱団がエーデ・スタールの作品を歌った大きなフェスティバルがありました。
 
 彼の命日とたった7日だけ違った、ほとんどちょうど20年後、大町ますみは横浜の神奈川県立音楽堂の舞台に立ち、彼女の「タームンタージール」を初めて日本語で歌います。
 

 
 神奈川県立音楽堂での公演が成功に終わった後1ヶ月少し経ってから、これらの入ったCDが作られ、デルフザイルの私達のところに届けられます。それは多忙をきわめた日々をもたらします。
 
 「ラジオ・ノード」はプロデューサー、レネー・ヴァルハウトを通じて、その全てが興味深く、特に「タームンタージール」の日本語バージョンにとても関心があるということを知らせます。
 その結果が2006年9月4日月曜日に、ラジオ・ノード人気の朝の番組ヘルチャン・ファン・ストラーレンが司会をする「ヘット・プリンセンホフ」で放送されたインタビューです。
 彼は番組を次のように始めます。
「この名前を覚えておいてください。大町ますみと大友正男。」
そして、それに短い紹介が続きます。とりわけ彼は、帆船日本丸男声合唱団が2003年にプロヴィンスを訪れたことを話します。デルフセイルでの公演を成功させ、彼等が「モッスルマンを知ってるかい」によって、如何にここで知られるようになったかということを。合唱団のメンバーは「モッスルマン(ムール貝を採る人)」と呼ばれ親しまれました。 その歌は、オランダのトラディションとして、在日オランダ大使館、日蘭協会によってアドバイスされ、合唱団がオランダ語で歌いました。
 これに関わることとして、ヘルチェン・ファン・ストラーレンは、その素晴らしい合唱団の団長で創始者、大町正人の名前を挙げます。多くの関心が大町ますみに向けられ、聴取者に紹介されます。
 番組には、ヒラルドとマユミへのインタビューも入れられます。プロデュ-サーのレーネ・ヴァルハウトによって、それからの3年間に起こった事を尋ねられます。エーデの歌の良い日本語訳に到達するのがとても難しいため、あれやこれやで多くの時間がかかりました、とヒラルドが話します。二つの言語はとても異なっています!しかし又、この「タームンタージール」の訳がオリジナルな詞に即していて、典型的なフローニンゲンの雰囲気を失っていないことを大変嬉しく思っているということも。
 最後に、誰もが聞きたくてうずうずしている質問が続きます。「他の歌も、まだこれから、歌われるのですか?」ヒラルドは、確かなことは言えませんが望みはあります、という言葉で答えます。 
 テクニカルなミス ―それはラジオ、それはライブです― の結果として、大町ますみの素晴らしい歌アイルランドの「The Water is Wide ―それは彼女の紹介のために選ばれていたのですが― だけが放送されました。ホストのヘルチャン・ファン・ストラーレンは次の日にこの埋め合わせを充分にすることを告げ、そしてそのように行なわれます。大町ますみの「タームンタージール」がフローニンゲンの地に響き渡ります。
 その次の日、更にもう一度、その歌は放送されます。同じく人気あるラジオ・ノードの番組、歌手でホストのヘンク・スホルテによる「Twij Deuntjes Veur Ain Cent(1セントで2曲)」の中で、です。彼はそれに関連して、エーデ・スタールの作品は既に高く飛翔している、と話します。カントリー&ウェスタン音楽の中心地テネシーのナッシュビルの人達は英語版の「Het het nog nooit zo donker west」をレコーディングすることを考えていました。他でもないウェイロン・ジェニングスによって歌われるものを。(残念ながら少し後にこのカントリーの大物は亡くなってしまいました。―トランキール)
 ヘンク・スホルテは、彼の人気のある番組の中で又、デルフセイル2003のこと、そこでの帆船日本丸男声合唱団による素晴らしい公演のことを、語ります。そして「タームンタージール」は、それから培われたコンタクトを通じて、大町ますみの信頼できる手によってもたらされたことを。司会者は訳詞者わたりひろゆきの名前も忘れず紹介します。大町ますみが、大友正男の伴奏で歌った「タームンタージール」を、彼は A MIRACLE (奇跡)! と呼びます。
 
 その次にやって来るのは、ローカルなラジオステーション「ハーヴェンスタットFM」です。フレタ・ファン・ザンテンが、水曜夜6時から7時までの文化の番組「カルチュラジオ」で、インタビューを含めてそれを話題にしたいことを知らせてきます。そのため私達は9月13日、居心地の良い小さなスタジオ「ハーヴェンスタットFM」―それはラジオ・ノードと同様、インターネットを通じて、世界中で聞くことが出来ます― のホスト、ヘリット・フォプマとテクニック担当のパウル・ヴォルデンドルプのところにいます。話はとてもはずみ、そこでも大町ますみの歌はもう一度、ユニーク! と語られます。
 
 9月23日(土)の「ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン」は第一面に「横浜のコンサートホール、日本語のエーデ・スタールを聞く」という見出しのニュースを運びます。エリック・ネーデルコールン記者はその記事の中で、「タームンタージール」が大町ますみによってもたらされた方法を「奥深い」という言葉で表現します。そして又、その出来事を「ユニーク!」と呼びます。
 更に、エリック・ネーデルコールンは、このような訳詞を実現することが大変な仕事であることにも、広く関心を注ぎます。どのようにしてそれが生まれたのかにも。その最初の始まり、すなわち帆船日本丸男声合唱団の2003年のフローニンゲン来訪から「タームンタージール」の日本語訳 ―それは彼の記事の隣に印刷されました― まで。
 最後に、エーデ・スタールの未亡人フィーケの、このニュースへの感想が載せられます。彼女は言います。「エーデが日本語で歌われるのは、とても素敵なことだと思います。どんなことが続くかは、誰にもわかりません。そこにはとても多くの人々が住んでいます。彼等がそれを素晴らしいと感じるかもしれません。」
 
 エリック・ネーデルコールンによる、新聞のウィークエンド版での記事を通しての関心に加え、ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデンはビデオも製作して、その関心を示します。
 
 
 
エーデ・スタール

't Het nog nooit zo donker west

(とても暗いことは一度もなかった)


 
 
 
>>エーデ・スタールⅡ
 
 
>>帆船日本丸男声合唱団
 
 
 
イラスト:
1. クリストフ・バウケマによる油絵「Credo-mien bestoan」(1988)。
  「Hai nam mie mit」として本も出版された絵のシリーズより。
  出版社 Profiel-Bedum
2. ソプラノ歌手大町ますみさんの写真。彼女の個人コレクションより頂きました。
3. タームンタージール(タームンターザイル)の写真。
  デルフザイル自治体、アーカイブより。
4. デルフザイルの墓地の写真:トランキール
5. 「ALLE 50 GOUD」:RTVノードより。
6. 「 Geef mie de nacht Ede Staal 」 の表紙の写真
  ヘンク・ファン・ミデラー著、ルミニス社出版(2004年)のエーデの伝記。
7. LPとCDの写真:トランキール
8. 帆船日本丸(を愛する)男声合唱団、第11回定期演奏会(2006年7月15日
  於神奈川県立音楽堂)プログラムよりの抜粋。合唱団から頂きました。
9. タームンタージール(タームンターザイル)の写真。
  デルフザイル自治体アーカイブより。
10.エリック・ネーデルコールンによりダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン
  に書かれた記事の一部。9月23日土曜日の新聞の1面に掲載されました。
 
 
 



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