Trankiel  Groningen - Japan
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ウートフーゼンの向こうの空
スピークの小さな塔
レインスからクロースターへの道
ヴェストポルダーを通り堤防に沿って

風車とモーレン
教会とボルヘン


エーデ・スタール作詞
『ホーヘラーン』より
 (注1)
             


 美しい夏の日、フローニンゲンのホーヘラントを自転車で行けば、その広々とした風景が心を捉えます。牧草地や肥沃な耕地が、はるか遠くの地平線まで伸びています。「ブーレンプロ―ツェン」と土地の人々が自分たちの言葉でそう呼んでいる、人目を引く「大きな農家」にもよく出会います。又、広くて真っ直ぐな排水路や、何世紀も前からの曲りくねったモーレン。春や夏にはカエルのやかましい鳴き声が聞こえてくる排水のために掘られた多くの溝。いつも吹いている風に流されている、はっとするような雲の下のこれら全て。
 人々と自然は、ここではもう長年にわたり、お互いがとても親しいものでした。海がそこで中心的な役割を演じ、ここで暮らす人々に豊かな恵みを与えてきました。しかしその同じ海が怒りを露わにした時の、厳しい闘いもありました。それらを証すものは、堤防と広く伸びたポルダーです。堤防がまだなかった時には、同じように、
ヴィーデンが海を撃退するために生み出されました。どこまでも平らな土地に最古の住人たちが創造したこれらの小高い土地を見る、その眺めは素晴らしく、そこは教会を中心にした特徴的なヴィアダの村です。生のすべては流転する ... そして、その通り!日曜日の教会はいつも、お説教を聴き、祈り、歌う人たちでいっぱいで、そこには壮麗なオルガンの心を打つ音色が響いていました。
 今、フローニンゲン州にある中世の教会は注目され、ヨーロッパ全体の中で歴史的なオルガンが数多くあることで知られています。真の愛好家にとっては、一つの理想郷と言えます。
 時には、それがどのようであったか想像してみましょう。教会は村々に散在しており、これらの神の家々からオルガンの音が響きます。オルガン音楽や住民たちの聖歌で満たされたホーヘラント。鳥肌が立ちます!
 しかし時代は変化します。もはやその土地はカルバン主義の教えに支配されてはいません。まだ昔のように満員になっている教会でも、です。若い世代は自分たちのやり方を見つけ、その宗教意識に新しい方向を与えています。
 さらにその眼差しは、もう長い間、アジアにも向けられています。仏教に、です。

 
 
(注1) エーデ・スタールがフローニンゲン語で作詞した『ホーヘラーン』の一部。
     地名もすべてフローニンゲン語で書かれています。
      *ウートフーゼン:フローニンゲン語でアウトハウゼン
      *ホーヘラーン:フローニンゲン語でホーヘラント
 
 
 
 
仏の世界へ渡らん。渡らん。
悟りの岸へ全く渡らん。

 『般若心経』より
 
 
Zen River(ゼン・リバー:禅川寺)を訪問

フローニンゲンの仏教
 
 電車でフローニンゲン中央駅から34分、私たちは目的地「Uithuizen(アウトハウゼン)」に到着します。そこではもう、修行僧のロバートさんが自動車で迎えに来て待ってくれていました。心からの歓迎の挨拶をいただき、2002年にOldörpsterweg(オルドルプ道)沿いに設立された仏教寺院、ゼン・リバー(禅川寺)に向かいます。
 
 短いドライブは、その最も古い時代を語るその村の一部を通り抜けます。Uithuizen という名前はヴィアダの外に huizen(家々)が出て行ったことを示しています。10世紀、それ以前はBrunwerd(ブルンヴェルト)と呼ばれていた所に、「ヴィアダOldörp(オルドルプ)」の住人たちが住みついたことから、その名前が生まれました。
 その村には多様な信仰が存在しています。そのことは、村にある多くの教会や墓地からも明らかです。アルプ・シュニトガー作の印象的なオルガンが1701年から存在する、13世紀に建てられた Hervormde(改革派)教会。あるいは、Mennonietenkerkstraat(メノニーテン教会通り)に面し、風車「デ・リーフデ」の向かい側にある Doopsgezinde(メノー派)教会、というように。
 又その村がとても良く知られているのは、フローニンゲン州の豊かさを示す素晴らしいボルフの一つ、メンケマボルフのお陰です。そこでは又、2003年に横浜からやって来た帆船日本丸男声合唱団が素晴らしい公演を行った所です。
 
 ロバートは車を巧みに寺院の敷地内へ乗り入れます。そこで再び、上記のことが思い浮かびます。かつて、この(ゼン・リバーの)建物は、宿泊することが出来たメノー派の教区コミュニティセンターでした。それは1936年に、当時20代であった牧師、M.J.J.ハーイケマのイニシアティブによって建設されました。その目的は二つでした。その農村地帯の異なった社会集団を互いにより親しくさせたいということと、多くの失業者が急速に増えている状況を何とかしたいということでした。戦後その「’t Oldörp(ヘット・オルドルプ)」は市民大学連合から市民大学協会に加入し、1954年には公式に市民大学となりました。しかしこの世の全てが儚いように、この善意の活動にも終わりがやってきます。
 その建物はホテル・レストランとなり、その閉店後のある時期は難民センターとして使われました。
 しかし、「domie(牧師)・ハーイケマ」と言う名前はずっと生き続けています。その息子、コメディアンのセス・ハーイケマの名前が有名であることも、その理由の一つです。
 この言葉の大家、セス・ハーイケマ自身が、彼の出自について次のように話しています。「私の父と母は両方とも牧師になりました。父は探索者で母は考案者でした。彼らはとても自由な考え方をし、牧師の仕事だけでは充分でないと考えるようになり、一緒に後の市民大学を設立しました。理想主義者。ヘンリエッタ・ローラント・ホルストのように世界を変えようとする人たち。素敵な人たちでした。」
 そして又、「私が反対だった唯一つのことは、その深刻さでした ... もしかすると、それで私はコメディアンになったのかもしれません。いいえ、両親はそのことに全く反対しませんでした。むしろ励ましてくれさえしました。」
 
 今、その入口には他の旗が翻っています。それらは、仏陀の頭や「White Plum(白梅)」- ゼン・リバーが属している国際曹洞禅の白梅会 - のロゴを、伝統的な仏教の色の中に示しています。花壇の中には、人々の人生が変化する時寄り添ってくれる、地蔵菩薩の小さな像が立っています。地蔵菩薩は特に子供が好きで、そのため陽気な赤い頭巾と襟巻を着けています。その杖の4つの輪は仏陀の4つの真理を表し、手に持っているのは願いの石です。
 ロバートと一緒に禅院に入り、用意されたスリッパを履いて食堂へと歩きます。そこでは小さなグループの人たちが席につき、紅茶やコーヒーを頂いています。禅マスターであるコペンス天慶老師から歓迎の挨拶を受け、そこに居る人たちを紹介されます。「妻のタマラ・ガブリッシュ名法先生。アメリカから来られた私たちの良き友、カルニ映道老師。ペーター、アンニョ、シモン、ハンス、ヘルマ、ヨアヒム、フリーデリカ ... 」そして最後に満面の笑顔で、「ロバートはもうご存知ですね。まず、紅茶か珈琲は如何ですか?それからロバートがあなた方を案内します。」
 私たちは喜んでそうさせて頂きます。そこには、はっきり見て取れる大きな連帯感と、はしゃいだとさえ言える楽しい雰囲気があります。
 
 それから、今日これからここを去られるカルニ映道老師のお見送りのため、コペンス天慶老師がしばらく同席できないことを詫び、その後ロバートが、とても興味深く為になる寺院見学の、私たちのガイドしてくれます。
 
 
 最初に、お寺のゲストたちが滞在できる小さな部屋を見せてもらいます。次に、禅堂 - 座禅のための部屋- に向かうホールに、ハンマー付きの木板、「板」と呼ばれるもの、が掛っています。それぞれの座禅の8分前、禅堂の中に入る時間であることを知らせるため、リズミカルにこの木板が打たれます。ここには又、いくつかの応量器 - ナプキンで包まれた合わさった3つの食器のセットで、禅堂での食事のために用いられる - も置かれています。
 
 禅堂の中には、仏教の開祖である釈迦牟尼仏陀の像が安置された祭壇があります。その後ろのホールには手製の大きな太鼓が、毎朝晩に座禅の終わりに使われる雲版 - 台所の金属製の鐘 - と一緒に置かれています。
 私たちはホールを通り、祖師たちを祀る開山堂へ歩きます。慈悲の菩薩、観世音の像の両側にあるのが、それらの名前が書かれた位牌(縦型の記念銘板)です。
 左手には、亡くなった家族や友人たちの位牌が置かれ、礼拝の時にいつも敬意を表されます。
 又角に置かれた小さな扉のついた祭壇-仏壇-の中には、前角老師とそのお父さんの位牌が祀られています。彼は、天慶老師の先生である有名なアメリカの禅師、玄法老師の日本人の先生です。
 私たちは階上の屋根裏部屋へ行きます。ここは主にアトリエとして使われ、座禅用の座布団や伝統的な禅の着物などが作られています。
 
 
 私たちは階下へ戻り、図書室にやって来ます。戻って来られたコペンス天慶老師が、そこで再び私たちに加わります。
 
 今までロバートの案内で見せてもらった全てがとても印象的です。例えば、食堂の上にある道場のことも、もっと良く知りたいと思います。そして図書室では、コペンス天慶老師は私たちの質問にとてもオープンに答えてくださり、とても素敵な会話になりました。その全てをこの記事の中に再現することは出来ないので、アウトハウゼンのゼン・リバーを是非一度ご自身で訪問されるか、情報満載の彼らのウェブサイト(英語)の訪問をお勧めします。
 
 
 短くまとめると、ゼン・リバーは曹洞宗の寺ですが、曹洞宗の座禅修行と共に臨済宗の要素もプログラムに取り入れています。それは、前角老師が法の伝達を両宗派から得、その異なった方法が交わるスタイルを発展させたからで、両方が一緒に使われています。この組み合わせが昔の中国では特殊でなかったことは明らかですが、ゼン・リバーはこの点で、ヨーロッパの禅寺では例外の一つと言えます。
 木曜と金曜を除いた毎日、朝5時に起床、2時間の座禅を行います。月に一度催される、一日に8~9時間座禅する接心と比べると、それは何でもありません。夏期には1カ月にわたる座禅会さえあります。
 
 
 三分の一の訪問者は、日本の修行僧も含む、ヨーロッパ以外からやって来る人たちです。ドイツからが代表的ですが、マドリッドにもしっかりしたグループが存在します。さらに、ウクライナ、スウェーデン、リトアニア、イスラエル ...  のような国々も挙げることができます。それはさておき、曹洞宗のヨーロッパ本部 Soto Zen Buddhism Europe Office(ヨーロッパ国際布教総監部)は、パリのルイイ大通りにあります。 
 ゼン・リバーは自身をオープン僧院とみなし、個人及びグループ、そして修行僧及び一般人のために、開かれています。良く知られた禅の伝統に基づき、誰もが全ての体験、慈悲に包まれた体験を共にすることが出来ます。今12名がそうしているような長期滞在も出来ます。短期の滞在も出来、全部で40名から45名が宿泊可能です。
 食事に関しては、主に菜食ですが、時には肉や魚も食べます。献立のご飯は時々マカロニに代わります。
 
 
 誘ってくださった昼食は、残念ですがお断りしなければなりません。今日まだもう一つ、この近くで他の約束があり、それに遅れたくないからです。
 
 その少し後、私たちはタクシーで広々としたポルダーに入り、画家のラシェル・ディールアールトのところに向かいます。彼女との会話でも又、疑いなく仏教についてが話されることと思います。
 
 
>>Zen River (英語)
 
 
 



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