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7. 著者ジョルジュ・シムノン
26歳のジョジュル・シムノンが、妻のティジーとブール、犬のオラフと一緒に、彼のカッター船でデルフザイルに到着するのは1929年9月のことです。彼の「オストロゴト」が今ルールフス兄弟の造船所に入っている、この男は一体誰なのでしょう?
彼は、1903年2月13日にベルギーのリエージュで生まれました。学校で作文を書く時既にジョルジュ・シム ― その名前で、後に数えられないほど多くの大衆小説を書きます
― と署名しています。
16歳の時、「ガゼット・ド・リエージュ」のジュニア記者となり、これにユーモラスなコラムも書くようになります。それから若い詩人や画家達のグループ「ラ・カク」のメンバーになります。ジュニア記者としての出発から2年後に、彼の最初の小説『アルシェ橋にて』を友人たちの挿絵入りで出版します。
1922年に生まれ故郷を離れ、パリに住み始めます。
そこで退役軍人会会長のビネ・ヴァルメールの秘書になり、それを通じて大勢の著名人と接触するようになります。リエージュを去ってから1年経たないうちに「ラ・マテン」や様々な広く読まれている'gallant'雑誌に物語を書き始めます。しばらくの間彼は、城主で「エコ・ドゥ・サントレ」の経営者であるド・トレーシー侯爵の秘書をします。
1924年彼はこのポストから離れ、再びパリに住みます。プラス・デス・ヴォスゲスで、大衆小説を書き始めます。これらはあらゆる種類のペンネームを使って書かれます。最初のそのような小説は、プラス・コンスタンティン・ペケールのカフェのテラスでたった一日で書かれました。
プラス・デス・ヴォスゲスでのニ番目のアパートメントは、ジョルジュが「メーラ・ブランク」を経営し更に編集にとりかかる時必要になります。
しかし自由の魅惑が彼に呼びかけたようで、パリにやって来てから5年後にジョルジュは最初の船を持ち、その「ジネット」でフランスを巡ります。着いたところで水辺にテントを張り、そこで毎日大衆小説の2つの章、あるいは3つの章さえも、書きます。
「ジネット」は長い旅行には小さすぎる、と彼は考えます。彼はカッター船を注文し、それはフェカンで建造されます。パリでその船は、威風堂々とノートル・ダムの司祭によって「オストロゴト」と命名されます。
そして、今デルフザイルの造船所に入っているのが、その「オストロゴト」です。
いつものように、シムノンは書きます。デルフザイルでも違いはありません。ダムステルディープで、平底の荷船が彼の目に入ります。それは朽ちかけていますが、邪魔されずに書ける場所として使うには充分なものです。彼は有能な木造船の建造者であるルールフス兄弟にその荷船の2,3の修理を依頼し、いくつかの箱
― テーブルや椅子として使う ― を船に乗せます。ダムステルディープの、この古い朽ちかけた荷船が、事実上メグレの揺りかごとなるのです!
シムノンは堤防の上の「パビリオン」― その後方に「ヴォルチェルスポール」の車庫がありました
― で、メグレという人物を思いつきます。そのカフェの給仕、垂れ下がった口ひげの痩せた男は、黒い運動靴を履いて、そこを歩きまわっています。
シムノンは後に言うでしょう。「その朝、私は、数滴のビターでちょっと色付けられた、1,2杯、あるいは3杯のジュネバ・ジンを飲んだのでしょうか? いずれにせよ、1時間が過ぎた後、私は幾分眠くなり、イマジネーションの中で、しかるべき警部になると私には思われた男の、頑丈な作りの無表情な姿を知覚し始めました。」
その同じ日の内に、彼はこの人物像にいくつかのアイテムを加えます。パイプ、山高帽、ベルベットの襟付きの重いコート。「そして、私の古い平底船の中はじめじめして寒かったので」と、シムノンは言います。「私は彼に、書斎のための古い鋳鉄製のストーブを与えました。」
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≪堤防の上の「パビリオン」≫ |
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≪パイプ:2003年、ジョルジュ・シムノン生誕100年のメグレ展で展示されたもの≫ |
彼は古船に戻り、一週間のうちに最初のメグレ小説『怪盗レトン』を書きます。すぐに、他の2作が続き、その一つが『オランダの犯罪』です。しかし、一番初めに書かれたメグレ小説は、発行された最初のものではありません。その名誉は『死んだギャレ氏』(1931年)のものとなりました。
シムノンは才能のある観察者です。いつも細かいところにまで気を配っています。デルフザイルでもそれは同様です。『オランダの犯罪』の中で、その町を描写することを彼は申し分なく知っています。又様々な社会階層の持つ雰囲気をスケッチすることも、とてもよく心得ています。小さな北オランダの地を、最も重要な人物達と共に描きます。「健康そのもの」のばら色の陽気な養牛場の娘。教師になったけれど、実際は道楽者のままで、世界に何が起こっているかに詳しい元船乗り。メランコリーで狭量なオランダ的思考を表現する、無口で疑い深い人物のグループ...
1930年、パリ、モンパルナス「ブール・ブランシェ」での盛大なパーティで、メグレシリーズが発表されます。そしてこれからは、ジョルジュ・シムノンは彼自身の名前で書くでしょう。1934年にまだいくつかの作品がペンネームで世に出ることにはなるでしょうけれど。
平均年に2作という著作で、メグレ小説の作品数はますます多くなります。翻訳の数もです。デルフザイル生まれのフランス人警部は、すぐに世界的に知られるようになります。メグレは多くの年月を冒険の生活で過ごすのですが、1929年に誕生してから1966年まで老化にわずらわされることなく、急速に変化する社会と共に進化します。シムノンが26歳でメグレを創作した時警部は45歳です。シムノン自身が63歳の時にはメグレは52歳ぐらいです。つまり、37年間に彼は7歳だけ歳をとります。
最初の映画の出現はただ時間の問題です。一番初めのものは1932年の「深夜の十字路」で、メグレにはピエール・ルノアールが扮し、その後多くの作品が続きます。おそらく最もよく知られたメグレは、ジャン・ギャバンによって演じられたものでしょう。その最初は1957年の「メグレ罠を張る」。「サン・フィアクルの殺人」と「メグレ激怒する」が続きます。
フランスの俳優達だけがフランス人警部を演じたのではありません。イギリスの俳優チャールズ・ラーフトンも演じたのですが、彼は多少ロンドン警視庁の警部のようであったと言われなければなりません。1948年の「男の首」。彼が演じる映画の中でエッフェル塔が目立った場所にあったのは、とても良いことでした。
この物語は既に1933年にハリー・バウア演じるメグレで、ジャン・ドゥヴィヴィエによって撮影されていました。
TVシリーズが、映画に続きます。メグレがテレビに登場する国では、警部はしばしば国家的俳優によって演じられます。イタリアでは、ジーノ・セルヴィ。イギリスではルパート・デイヴィス。ドイツではハインツ・ルーマン。オランダではケース・ブルッセ、ヤン・ツーリングス。そして日本では、愛川欽也...
© 2006 Trankiel
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