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10. 個人的な考えと...
いろいろな事が重なり、デルフザイルはメグレ・シティとなりました。もし著者ジョルジュ・シムノンがヴィルヘルムスハーフェンの警察によって容疑をかけられず、直ちにドイツ領海を去るように命じられなかったとしたら、どうなっていたでしょう。そしてもしちょうどその時、オストロゴトの漏れ穴が発見されなかったとしたら、どうなっていたでしょう。そのカッターをルールフス兄弟の造船所で修理してもらうことを必要にさせた漏れ穴、1929年の9月いっぱいかかったもの。実際、港町でのメグレの誕生をもたらした二つの出来事。これに、もしその警部が世界的に有名にならなかったとしたら、町がパリジャンの警部と関連づけられることはなかっただろうということが、付け加えられるかもしれません。
メグレの誕生の時、彼がそのように有名になるという考えを、誰かに抱かせる理由があったでしょうか? 個人的な意見では『オランダの犯罪』を基準にするなら、答えは確かに「ノー」でしょう。様々な理由でその物語はかなり貧弱であると見ているのですが、これにはすぐ、その本は又人の心を捉える、ということを付け加えておかなければなりません。そう思うのは、多かれ少なかれ物語の起こった町に住んでいるからなのでしょうか?
それとも、その本はここデルフザイルでもそんなに人気があるとは言えないという単純な事実のため、それが理由ではないのでしょうか...
このことを例証するものとしては、2003年2月13日のダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン紙の中で、ジャーナリストのエディ・スハ―ンクはデルフザイルでのメグレの人気について「Maigret
'leeft' in Delfzijl, maar Delfzijl 'leest' Maigret niet(メグレはデルフザイルに'生きている'が、デルフザイルはメグレを
'読まない'」という見だしで、書きます。記事の中で、デルフザイルで小説『オランダの犯罪』を見つけることが如何に困難であるかを知らせます。本屋でも図書館でもです。前者で、その本を求めるのは主として観光客であると言われます。後者で、『オランダの犯罪』はもう既に何年も入手出来ない状況である、と言われます。彼は記事の中で又、地方のVVV(観光案内所)所長が次のように話すのを引用します。「私はデルフゼイルの地の人間で、ここにメグレ像がありこの警部についての本があることを知っています。が、正直に言わなければなりません。私はそれらの1冊も読んでいません。」
しかし、2003年2月13日、ジョルジュ・シムノンの生誕100年祭の後『オランダの犯罪』は新版で広く手に入れられるようになりました。その時又メグレの生誕の地で、著者に対してと同様に彼の作品に対しても関心が高まりました。
レポートの最後になりましたが、まだ触れておきたい『オランダの犯罪』の中のいくつかの事柄があります。
物語の冒頭で、メグレはホテル「ノードオースター」で注文するビールの代金を払う必要がありません。あとで払えば良い、と言われます。ここで著者は、その時の彼自身の個人的な状況を使ったのに違いありません。彼はツケで買うことができました!
彼は、船舶雑貨商、オースティングのところでも、先に述べたようにそうしました。オースティングの名前は彼によって、本の中の人物の一人、すなわち「ボス」とも呼ばれている男に与えられました。シムノンのオースティングはロトゥム島の監視人で、実際とても小さなロトゥムと呼ばれた無人の島にそのような監視人が存在していました。それはドイツのボルクム島の西にあり、両者の間をヴェスターエームスが北海に流れ出ています。
著者が、出会った実在の人物達の名前をよく使った、ということは事実です。もう一つの例として『オランダの犯罪』の中でク-ンラードとその妻リースベトに与えたポッピンハという名前があります。彼はたまたま一人のポッピンハ氏、すなわちスタフォーレンの市長に会いました。フリースラント州年鑑
― 1929年/1930年 ― の、スタフォーレンについての記載の中に書かれています:「市長:L.Poppinga, 1921 - 1933年6月17日 … 」
≪上と下:フリースラント州年鑑-1929年-≫
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≪スタフォーレンの港≫ |
ク-ンラットとその妻リースベト。彼等の姓ポッピンハは、スタフォーレンから来ていると考えられます。その本の中でこれらの人物を作り上げるため、シムノンは他のどのような事を使ったのでしょうか? ただ推測できるだけなのですが興味ある事柄です。
作家がここにやって来た時、ライクスヴェヒ31番地にはヴェールセマ家が住んでいました。ヴェールセマ氏は商船学校「アベル・タスマン」の教師だったので、ク-ンラット・ポッピンハがその同じ学校の教師であることは、そんなに以外なことではありません。
ヴェールセマ夫人とポッピンハ夫人、二人の女性をよりよく見てみると興味深いことに気付きます。ヴェールセマ夫人はフランス人女性、私達が知っているようにジョルジュ・シムノンのかつての女友達の一人でした。そのために本の中でリースベト・ポッピンハが流暢にフランス語を話すのであろう、と簡単に結論できるかもしれません。リースベト・ポッピンハが彼女のク-ンラットと若いベーチェ・リーヴェンスの関係にそんなに注意を払わなかった、ということの理由を見出すことの方が、もっと難しいと思います。もちろん、その物語を書いた時作家は、彼女をむしろナイーブで愛情ある妻として紹介するのが一番良いと考えたのかもしれません。彼の意見で、典型的なカルヴィン派的特性?
それでは、メランコリーで狭量、無口で疑い深い人物たちのグループの彼の描写については、どう理解すれば良いのでしょうか?
リースベト・ポッピンハは疑い深くはありませんでした!
それともヴェールセマ夫人は、彼の以前の女友達の一人でフランス人であったということがここである役割を演じたのでしょうか?もちろん、この問いに答えることはできません。
このことで注目されるのは、作家とその連れたちはルールフス兄弟の造船所のとても近くにあるヴェールセマの家ではなくオストロゴトの船上に滞在していた、ということです。シムノンはこれについて、1966年3月24日にエパリンジェで書きました。「当時私はまだ、1日に1~3章書くという習慣を持っていました... すぐに私は、まいはだ詰めの作業者達がハンマーを打つところ、朝から晩まで鐘のように反響する船の中では、これは不可能であることに気付きました...
ホテルで部屋を借りることは不名誉なことだと私は思いました... 」
更に他から知ったように、ルールフス兄弟とシムノン達との間の通訳をするのは地元の実業家ロッヘンカンプ氏です。何故ヴェールセマ夫人でないのか、と人は不思議に思うかもしれません。
シムノン自身が以前、実際に計画していた船旅、つまりデルフザイルからヴィルヘルムスハーフェンへ、そしてそこからハンブルクへ航海すること(1966年に彼自身が言います:エムデン、ブレーメルハーフェン、ハンブルク)は、又、この本の中に戻って来ます。すなわち、彼はデュクロに、エムデン、ハンブルク、そしてブレーメンへ講義をしに行かねばならない、と言わせます。
彼は本の中で様々な場所を正確に描写しましたが、物語のために又、いくつかの事柄をここかしこで自由に変えていることにも、気付きました。例えば、実在していたファン・ハッセルトの二つのホテルから、彼は一つのホテルを作りました。
寄宿舎船「アベル・タスマン」と船上に住んでいた学生達をとても生き生きと描写しているところで、彼は船の年齢に半世紀を加えます。事実は、それはロッテルダムで3本マストの帆船として建造され、そこで1877年5月12日に軍艦ボネールという名前で進水しています。
そして、実際はダムステルディープの向こう側の岸、ファーム「リンゲヌム」とは反対側にあった材木置場を、彼は、ベーチェにこっそりとロマンティックな時をそこで過ごさせることが出来るように、家のある側に置きました。
最後にもう一つ、彼は街灯に使われていた電灯をガス灯に変えています。サスペンスに照らしてみるなら、理解できる改変です。
更に、彼の個人的な経験が、実際に考えられることよりはるかに重要な役割を演じているのではないか、という考えから逃れることが出来ません。例えば、彼のヴィルヘルムスハーフェンでのドイツの警察との不愉快な経験が、もっと優秀なもっと知的な警察官を創造できるだろうという考えを、彼に抱かせたのかもしれません。メグレと、例えばパイペカンプとの関係が、何故か私のこの考えを強くします。
そして、シムノン自身の私的な状況 ― ティジーとボウルが一緒にカッターに乗船しています ― が、『オランダの犯罪』の創作にある役割を果たしたのかもしれないという考えさえ、脳裏から離れません。自身のファンタジーに夢中にりすぎているのかもしれません。しかし彼自身、彼が関係した多くの女性たちのことを豪語するのが好きだったのではなかったでしょうか?
最後に。シムノンは本当に申し分なく町を ― 著者としていくつかを自由に変えた以外は ― そして様々な環境を描いたと言えるのですが、何かが足りないと感じています。
犯罪はなく誰もが自分で生計を立てている、とてもきちんとしたところ等として描かれているその町は、もっと正当に扱われるべきであったという部分。この静かで整然としたところを代表する者たちとして、著者はポッピンハ一家、ベーチェ・リーヴェンスやヴィーナント一家のような目立った人たちを描きます。
しかし、緑の堤防の横の玩具と彼がとても快く呼ぶこの町や、州全体でも見出された貧困については、彼はどこにも触れていません。農場労働者のストライキは、まさにその強烈なコントラストの一つです。
© 2006 Trankiel
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