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8. メグレ像の除幕式

  ≪ ピーター・ド・ホント作のメグレ像 ≫


 デルフザイルに滞在しメグレを創造してから37年後、ジョルジュ・シムノンはこの港町に戻って来ます。それは1966年の9月のことです。多くが変化しました。彼の「オストロゴト」と一緒だった若い作家は、世界的に有名な名誉ある作家となりました。今や彼はすべての事柄の要です。ツケで買物をしなければならなかった1929年とは大違い!当時は冒険の旅の途中、今は公式に招待されて。
 彼を招待したのは出版社「ブルーナ」で、そのポケットブックにつけた名前「ズバルテ・ベールチェ(黒い小熊)」の1000冊目の出版を祝います。
 シムノンは、この特別な日にアムステルダムからここまで走る「ズバルト・ベーレンエクスプレス(黒熊エクスプレス)」と呼ばれた特別列車で、一人でやって来るのではありません。同乗しているのは、例えばTVシリーズでメグレを演じている3人の俳優、ルパート・デイヴィス、ジーノ・セルヴィとヤン・ツーリングスです。ハインツ・ルーマンは単独でやって来ます。デルフザイルにはメグレ物語を出版している様々な会社も又来訪しています。彼等は九つのヨーロッパの国々から来ています。ニューヨークからは、ハルコート・ブレイス・アンド・ワールド社。フローニンゲン州を代表して州知事のC.L.W.フォック氏、デルフザイル代表は市長のA.P.J.ファン・ブルッヘン氏です。DHO(デルフザイルス・ハーモニー・オーケスト)吹奏楽団が一生懸命演奏し、商船学校アベル・タスマンの学生達が正装で儀仗兵を務めます。



 全員が、ダムステルディープに接したここ、ポッピンハの家やリーヴェンスの養牛場からそんなに遠くないこの場所に集っています。記念祭を祝うA.W.ブルーナからデルフザイルへのプレゼント、著名な芸術家 ユトレヒト出身のピーター・ド・ホントが彫刻した、ブロンズのメグレ像の除幕祝賀式のために。
 その祭典は、大勢の群集だけでなく、オランダ・イギリス・ドイツのTVのカメラティーム、映画制作者、写真家やジャーナリストの軍勢をも、同様に惹きつけています。
 市長はスピーチの中で、ブルーナがメグレ警部とその偉大な父ををデルフザイルに戻らせたことへの、喜ばしい気持ちを表現します。









≪右:ファン・ブルッヘン市長
   のサインがある
   メグレの出生証明書≫


 1966年8月13日に「ニュースブラット・ファン・ヘット・ノールデン」のジャーナリスト、ピーター・テルプストラは既に「メグレ、フローニンゲンの人々の小さな特徴を持ったパリジャン」という見出しで記事を書いていました。彼の記事の最初の部分を引用します。「ピーター・ド・ホント作の彫像の写真は、メグレがいくつかのフローニンゲンの人々の特徴を受け取っていることを示している。頑丈な作りの男、相当な自信、結果をもたらす明らかに言うべき何かがある時だけ開かれる口。私がシムノンの著書から知る、パリの警部が時々反応する仕方は、少しフローニンゲンの人々のそれに似ている。」
 更に、彼の手になる記事の中にこう書かれています。「おそらく、メグレ、パリの街角のすべてを知っているこの典型的なフランス人は、デルフザイルで誕生したと言うことが出来るでしょう。そして、それは本当です。何故なら、1929年、作家シムノンが彼の船と一緒にデルフザイルに滞在していた時、彼のイマジネーションの中に、メグレ、有能であるが人間の常として誤りを免れ得ない、静かで理性的なメグレが、現れたからです。そのことが多分、その驚くべき成功、このパリの警部の冒険が何百万という多くの読者に、多くの言語に訳され語られてきた秘密なのでしょう : 彼は、ごく平凡なフローニンゲンの人々の特徴をいくつか持つ、とても平凡な一人の人間です。それ故、彼の銅像がここに立つことは、デルフザイルにとり、とても大きな名誉なのです。」
 ピーター・テルプストラは、ジョルジュ・シムノンがただ空想によって創作したのではないことも又、関連の記事の中で書いています。:ポッピンハが殺害された、そしてシムノン自身がデルフザイルに滞在中に訪れたであろう―その家は、今なおそこに建っています。現在の居住者「デ・エームスボーデ」の経営者H.ヘールツェマ氏は、今でもいつもポッピンハがその窓から撃たれたその浴室を使っています。


 1966年9月3日のこの午後のうちに、シムノンは全く思いがけず37年前デルフザイルで彼に挨拶をした最初の人物であった男に会います。今は80歳のJ.デ・ロース氏で、当時ポストストラートに葉巻の店を持ち、船舶雑貨商オースティングの新しい顧客を拾うためいつも港にいました。ジョルジュ・シムノンは、そのような客になりました。
 「私はその時、お金を持っていなくて、フランスから小切手を送るというシムノンが、デルフザイルでツケで買い物が出来るように取り計らいました。」
 この日この後、シムノンはファン・ブルッヘン市長の同伴で町を歩きます。ただ散策するだけではなく、1929年からの記憶をたどって思い出の場所をたどり楽しみます。最初につけで買った肉屋を見つけた時も大喜びします。
 デ・ロース氏は全くフランス語を話さず、シムノンは全く英語も話さなかったのですが、1929年当時それでも二人はお互いを理解し合いました。
 「ああ! 金儲けに関することだったら、あらゆる言葉が理解できる。」と、デ・ロースは哲学的に語ります。
 デ・ロースとシムノンは二人が最初に出会った年について意見が合いません。「1929年だった。」とデ・ロースが言います。「いいや、1928年。」とシムノンが答えます。「1928年の8月に私は港にいて、それからエムデン、ブレーメルハーフェン、ハンブルクへと航海した。それから1929年に私は戻って来た。だからここには2度来ている。2回目は、私の船が造船所に行かなければならなかったのでより長く滞在した。その時、メグレが'生まれた'。」


 それは1928年だったのでしょうか?それとも1929年?シムノンは本当に2度デルフザイルにやって来たのでしょうか?そして、どこから彼はやって来たのでしょうか?先に述べたように、不明瞭!
 ジョルジュ・シムノン自身でさえ、デルフザイルに到着した年に関して、デ・ロース氏と明らかに言い争っているのであれば、それでは...




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